水平の世界に存在する何かが,垂直の平面で特別に仕立てた「動物園」でヒトを覗き見る


篠田千明の「ZOO」を見た.演劇は久しぶりに見たけれど,今の私はヒトよりもディスプレイに注目してしまう.ディスプレイの位置とそのフラットさ,そして,ディスプレイの表面に起こっている反射.特に水平に置かれたディスプレイを見てしまう.ヒトは重力に対抗するわけではないけれど,二足歩行で経って,水平的姿勢から垂直的姿勢を取るようになった.ヒトにゴーグルをかけるVRも基本的には垂直な性質をもっている.絵画やスクリーンが垂直に掛けられているように,HMDで展開される映像も垂直的なものである.映像自体は360度だったりして,垂直でも水平でもないようなものでも,ヒトが立っている,あるいは,座っていても,背筋が伸びていることを想定しているから,そこに映る映像にはどうしても垂直性がでてくる.垂直だから重力の影響下にあって,水平だとそうではないと言いたいわけではない.水平であろうと,垂直であろうと,ヒトは重力のなかにある.ただ,水平なディスプレイはどこか重力から逃れている感じがあるような気がする.それは錯覚にすぎない.錯覚であろうが,感覚しているのであれば,そこには確実にリアルな何かがあるはずである.だから,水平に置かれたディスプレイが示す重力から逃れているような感じは錯覚であろうが,そこに確かにあるものである.





VRはヒトに付ける.これは意外と忘れられているような気がする.だから,VRは垂直的,二足歩行的な感じがある.二足歩行が水平に置かれたディスプレイを踏みつける.垂直と水平は交わることがない.水平は垂直にたつヒトを支える.水平と水平とは重なり,平面をあらたな様態にする.そこをヒトが歩く.あるいは,踏みつけていく.人工芝だって講堂の床にしかれている.平面に平面が重なっている.VRは立体のモデルにスキンを貼り付けていく.ここまで書いてしまうと,ZOOから離れていく感じがする.ZOOは水平を重ねることで,垂直のヒトがいなくなった世界を描こうとしているようにも見える.VRは垂直であるけれども,結局はスキン,平面の重なりでしかない.そこに垂直のヒトがあるから,妙なことが起こる.水平世界に重力を持ち込むから変なことが起こるのである.


嘘みたいな本当の話ですが,この時点では私たちはカプセルがどういう態勢で着地したのかわかっていなかったのです.
重力が身体にどの方向からかかっているかわかりません.
ソユーズの着陸では、カプセルが横倒しになる可能性が高いのですが、着地の衝撃がすご過ぎて、自分たちが横倒しになったかどうかがわからないのです.
グローブを外した時に、どっちの方向に重力がかかるか心構えをしておかないと、グローブを取り落とすかもしれません.
そしてそれが他のクルーメンバーに直撃しないよう、尋ねたのだと思います.
https://plus.google.com/101922061219949719231/posts/7j7yZdujMDr?sfc=true


宇宙から帰ると重力がわからなくなるらしい.ZOOに棲むヒトは重力のなかにいながら,水平世界にも行こうとしている.だから,ディスプレイを水平に置いてみている.でも,ヒトはそこに垂直に立つしかない.ヒトは垂直でありつづける.ナマケモノが極めて水平的に動いても,ヒトはそれを垂直のディスプレイで撮影する.水平と垂直とが交わりそうで,交わらない.垂直に二足歩行するヒトがいなくなったあとに残された水平の世界に存在する何かが,垂直の平面で特別に仕立てた「動物園」でヒトを覗き見ているのが,今回の「ZOO」だったのではないだろうか.







終演後にもらった「ZOO」のパフレットのなかにはテキストがあって,空のりんごの断面とその中身のことに書かれていた.


また空のりんごの断面がある そこには常に面によって閉ざされ
空のりんごの中身はいつまでたっても見ることができない


このテキストから「ZOO」でのディスプレイの役割を考えてみると,ディスプレイは平面でも表面でもなくて「断面」と考えるのがいいのかもしれない.では,なんの断面なのか.3次元の断面.いや,単なる断面.多くのディスプレイとスクリーンとが,VRを断面化する.モノとしての断面は,平面としての意味を示して,断面となって3Dに貼り付けられる.3Dに貼り付けられた断面は,3Dとしてディスプレイという平面に映り,そこで3Dの断面を示す.中身=3次元を見ることはできない.空のりんごの断面を見ようとしなければ,そこには中身があるというか,断面につながった中身があり,中身そのものが断面となっている.中身が即,断面になって,「身即面」となった世界でヒトは垂直で立ち続けている.ヒトは垂直な断面にはなることできる.そして,断面=お面から猿がでてくる.猿の面は取られることはないが,ヒトが着けているHMDという面は取られる.ヒトから面=断面が取られる.HMDとともにあった垂直の世界をヒトはとられる.ヒトはHMDという垂直的な断面が取られて,立体的な世界のなかに入り込む.




立体的な世界に入ったヒトは,ディスプレイの上に立つ.その断面=ディスプレイには最初,電源が点いていて,何かを示そうとしているけれど,何も映すことなく,微かに光っている黒い面になっている.そのうえに,裸足でヒトが立つ.ディスプレイはディスプレイであり,そこに光っていて,暗い断面を見せている.ヒトはそこに落ちていく.いや,いかない.ディスプレイとヒトとのあいだには透明な板が置かれている.ヒトはディスプレイのうえに置かれた透明のアクリルの板に立っていたけれど,やがて,ヒトはそこから転げ落ちる.気がつくと,ディスプレイの電源は切れてモノとなっている.ディスプレイはアクリルの板の下でモノという三次元の存在になる.しかし,ヒトは水平に置かれたディスプレイの世界にたどり着くことはない.透明なアクリルがそれを遮るし,たとえディスプレイにたどり着いたとして,その表面のガラスがヒトを跳ね返す.ディスプレイという水平の断面に垂直の裸足のヒトがヌルヌルと入っていくような可能性が示されるけれど,それは単なる可能性でしかない.しかし,そのヒトも水平に置かれたディスプレイから転げ落ちて,いなくなってしまった.水平に置かれたディスプレイとそのうえのアクリルの板につけられた皮脂だけが,そこに何かがいたことを示し続けるだけである.


けれど,その側には垂直に立っているヒトが普通に存在している.この先,ヒトが重力を忘れて水平な断面になるようなことは起こるのだろうか.もし起こったとしたら,その時こそ,VRは重力から自由になれるような気がする.

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

画面分割と認知に関するメモ

カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想

モノのフラットデザイン化とアフォーダンスなきサーフェイス

矢印の自立