テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶_レジュメ&スライド
今日の研究会,こんな感じで話しますした.
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テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶
水野勝仁@第3回新視覚芸術研究会公開シンポジウム
発表スライド
→https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-Ml80Z0xiUFl0clE
- オブジェクト - 不可知なもの - イメージ
- 「オブジェクト‐不可知のもの‐イメージ」の三項モデル
- 実際,「オブジェクト‐イメージ」という古いバイナリモデルは,「オブジェクト‐不可知なもの‐イメージ」の三項モデルに置き換わってきている.「不可知なもの」では,物理世界の出来事をイメージとして認識できる何かへと変換する処理操作が行われる可能性がを引き起こす.この考えはアナログイメージにもコンピューテーショナルイメージにも同等に当てはまる.(Location 890)
- Daniel Rubinstein and Katrina Sluis, The Digital Image in Photographic Culture: Algorithmic Photography and the crisis of representation
- 入力と出力とのあいだの非連続性
- すべてのプログラムされたオブジェクツはデジタルコードで構成され,アルゴリズムによる操作の対象である.アルゴリズムはアナログイメージをデジタルイメージに変換するのに必要な転換点である.アルゴリズムは抽象的であり,シンボル化されており,通常は擬似コードやフローチャート図で描かれたステップバイステップの指示の集まりである.(p.189)
- Eyvind Røssaak, Algorithmic Culture: Beyond the Photo/Film Divide
- 『The Virtual Life of Film』において,ロドウィックはアナログとデジタルとの違いを存在論的に分析している.アナログの光化学プロセスは入力と出力とのあいだの連続性の原理に基づいているのに対して,デジタルイメージの情報処理過程は,存在論的に言うと,入力と出力とのあいだの分離と非連続性に基いている.この根本的な非連続性がなければ,コンピュータのアルゴリズムは機能しない.「情報処理の存在論は…その出力に関しては不可知である」と,ロドウィックは述べている.入力と出力とのあいだの非連続性が,創造と想像,そして,偶然と操作のためのあたらしい空間をつくる.この空間は,光化学プロセスとしての光と影ではなく,操作と修正を実行するコンピュータのアルゴリズムによって上書きされる.(p.190)
- Eyvind Røssaak, Algorithmic Culture: Beyond the Photo/Film Divide
- デジタルコンピューティングでの入力と出力との分離は,その持続において物理的世界から情報を分離し,時間と空間と連続性も切断するものである.(Location 1670)
- D. N. Rdowick, The Virtual Life of Film
- コンピュータががつくる入出力の物理的非連続性の身分
- アナログの不可知なものとコンピュータの不可知なものは異なる.コンピュータは物理現象で動くけれども,それだけ説明できるものではない.物理世界に基づく独自の世界=意識をつくりだすヒトのようなものである.だとすれば,物理現象として理解できるアナログの不可知なものとは異なる様相を示すと考えられる.物理現象は物理世界を裏切らないけれど,コンピュータは物理世界に還元不可能な表象をつくることができる.
- 意識経験に物理的な世界における独自の身分を与える
- ここで重要なのは,経験される性質は,なんらかの物理的性質に還元されることによって,物理的世界に位置づけられるのではないということだ.物理的性質を持つ事物からなる環境のなかに本来的表象を持つ生物が存在するという,それ自体としては物理主義的に理解可能な事態が成立することによって,物理的性質に還元不可能な性質が,物理的世界の新たな構成要素となのだ.このような考え方を,自然主義的観念論と呼んでもよいだろう.(p.178)
- 鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』
- 意識の自然化における物理主義者の真の課題とは,意識経験を他のものに還元することではなく,意識経験に物理的な世界における独自の身分を与えることなのだ.(pp.178-179)
- 鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』
- 「見る」ことの集積と一瞬ごとに「再生」される「見た」こと
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 見たことの集積を平面ではなく,ひとつのオブジェクトして3D空間に配置する
- 3D空間に配置されたオブジェクトをディスプレイ/プロジェクションという平面で見る・体験する
- 複数のまなざしの集積をまとめるプログラムを見ること
- 3Dスキャナで物体を3次元で記録するとき 対象物を回転させたり,対象物の周囲を歩き回りながら その表面のテクスチャや凹凸を記録していく.3Dスキャナで記録することは,かつて様々な角度で対象物を「見た」ことの集積の記録でもある.
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 3Dスキャンして出来上がる3Dデータは,そうした異なる角度の複数のまなざしの集合でできている.わたしが今その3Dデータを見るとき,それは一度(誰かに)見られたものとしてあり,ばらばらな過去のまなざしと私のまなざしが重なり合うことで,それを「見る」ことができる.
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 複数のまなざしをコンピュータがまとめて,あらたな表象にする
- あらたな表象と私のまなざしが重なりあう
- 空間的差としてモヤモヤ/エラー
- 時間的差としてのモヤモヤ/エラー
- 物理現象に還元できない表象
- 画面が更新され続けるものを立体/彫刻としてとらえる
- 暫定的にですが,コンピュータ上で一度のシミュレーションで完了するもの,つまり単にファイルを開くだけのものを画像/絵画として,逐次リアルタイムにシミュレーションされつづけ,画面が更新され続けるものを立体/彫刻としてとらえるのはちょっとアリかなと思っています.一度で全体が見渡せるものが絵画,周囲を回って見なければならないのが彫刻だという普通の話なんですが,コンピュータ上での計算,シミュレーションの時間的差として現れてくることに着目して何か考えられるんじゃないかと.(p.90)
- 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」
- 女性の使用済み下着を購入するマニアは,買った下着を電子レンジで温め楽しむそうだ.ここでは使用済みの下着は一種の記憶メディアになっていて,電子レンジで温めることで脱ぎたての状態を「再生」する.
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 「虚」のアップデート
- 「虚想」とそのアップデートとしての「複眼的思考」
- 虚想
- 机の現在ただ今の背面の知覚的思いはこの現実世界の思いではなく架空の虚なる思いである.だがこの虚なる思いがこの実の世界で実の働きをする.すなわち,この虚なる思いがこめられていてこそ机の知覚正面はまさにこの机の実なる知覚正面であるのである(つまり,机は机として見える).この虚なる思いの実の働きを「虚想」と呼ぶのである.(Location 4205)
- 大森荘蔵「虚想の公認を求めて」
- 事物や事の独特な立ち現われ様式に「虚想」という名を与えたが,この語に伴う気まま勝手さは虚想にはない.それはわれわれの思いのままの空想とは反対に,知覚と同様われわれに直接に与えられるものなのである.思いのままに知覚できないのと全く同様,思いのままに虚想することはできない.(Location 4321)
- 大森荘蔵「虚想の公認を求めて」
- 複眼的構造
- ここで,立体の知覚と距離の知覚に共通する構造として,「ある眺望点からの眺望は他の眺望点からの眺望の了解がこめられてはじめて成立する」という構造が取り出せるだろう.そこで,虚想論の拡張として捉えられるこの構造を,眺望の「複眼的構造」と呼ぶことにしたい.(Location 1273)
- 野矢茂樹『心という難問───空間・身体・意味』
- だが,無数の写真を集めただけでは,一脚の椅子を構成するために決定的に重要なことが欠けているのである.それらの写真は,同一の椅子を写したものでなければならない.あまりにも当然のことなので見落とされやすいが,異なる椅子の写真をいくら集めても,一脚の椅子を捉えることなどできはしない.ところが,私に渡されたのはただ多数の写真だけでしかない.なるほどそれらはアングルの違いこそあれ,よく似ている.しかし,それが同一の椅子なのか,それともよく似た別の椅子なのか.写真だけをいくらまじまじと見ていても,分からないだろう.(Location 1355)
- 野矢茂樹『心という難問───空間・身体・意味』
- 写真だけで足りない.その写真がどの位置からどの方向から撮影したものなのかが,ここで決定的に重要なこととなる.撮影の位置と方向を矢印で表現してみよう.矢印の始点がカメラのある位置であり,矢の向かう先がカメラを向けた方向である.つまり,この矢印は眺望点(知覚する位置と方向)のあり方を表わしている.そして,これらの写真が同一の椅子の写真であるためには,矢印はその矢の先においてすべて一点で交わっていなければならない.(Location 1360)
- 野矢茂樹『心という難問───空間・身体・意味』
- 虚想・複眼的構造・コンピュータ
- 物理世界の見えない部分=虚想
- 虚ではなく実である=複眼的構造
- 3Dスキャンの前提となっている
- 《私のようなもの/見ることについて》再び
- 「複眼的構造」の具現化としての3Dデータにもとづいて計算された表象を見る.
- 物理現象に還元できない表象が生まれている
- 3Dスキャナで物体を3次元で記録するとき 対象物を回転させたり,対象物の周囲を歩き回りながら その表面のテクスチャや凹凸を記録していく.3Dスキャナで記録することは,かつて様々な角度で対象物を「見た」ことの集積の記録でもある.
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 3Dスキャンして出来上がる3Dデータは,そうした異なる角度の複数のまなざしの集合でできている.わたしが今その3Dデータを見るとき,それは一度(誰かに)見られたものとしてあり,ばらばらな過去のまなざしと私のまなざしが重なり合うことで,それを「見る」ことができる.
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 「虚」とコンピュータ
- リアルタイムの計算が立ち上げるコンピュータ独自のオブジェクト
- オブジェクトがリアルタイムに削除されたり,現われたりする
- コンピューターの画面の中で見えているものは,全て何らかの計算の結果として現れている.だから,見えていない部分の計算を省くことによって,計算効率をあげることができる.3Dのコンピューターゲームではユーザーの視点から見えないオブジェクトの裏側の描画を省いたり,遠くにあるオブジェクトを削除するなどの手法が用いられる.
- 《私のようなもの/見ることについて》
- 暫定的にですが,コンピュータ上で一度のシミュレーションで完了するもの,つまり単にファイルを開くだけのものを画像/絵画として,逐次リアルタイムにシミュレーションされつづけ,画面が更新され続けるものを立体/彫刻としてとらえるのはちょっとアリかなと思っています.一度で全体が見渡せるものが絵画,周囲を回って見なければならないのが彫刻だという普通の話なんですが,コンピュータ上での計算,シミュレーションの時間的差として現れてくることに着目して何か考えられるんじゃないかと.(p.90)
- 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」,美術手帖 2015年6月号,美術出版社
- コンピュータの世界では虚は虚であるがゆえに実効性をもつ
- コンピュータは見えない部分を描写しない
- 計算によって,ある視点から見える部分だけ事物が一瞬ごとに立ち現れる
- 虚は虚である
- 虚は単に「虚」なのではなく実効性をもつ.
- 計算効率を上げて,コンピュータによる世界の構築に貢献する.
- アバターのテクスチャーが貫入するとき
- 裏側の描画を省く設定
- アヴァター同士が貫入した際に,裏側を実は描画していないんです.これは制作に用いたunityのデフォルトの仕様で,裏側の描画を省く設定になっています.
- 谷口暁彦のメールより
- 「設定」だとすれば,それはひとつの世界(少なくともUnityというゲームエンジンが形成する世界のデフォルト)を形成している.
- 谷口アバターの後ろ
- 谷口アバターに後ろはある
- けれど,描画されていない
- 激突すると,裏がない
- でも,後ろは「ある」
- けれど,激突すると裏がない.後ろもない
- 裏がないことがモノとしての身分を奪う
- ここで私たちは,バラと虹との相違点に目を向けねばならない.バラの眺望は複眼的である.それはさまざまな距離と角度から見ることができる.他方,虹が有している複眼性は希薄なものでしかない.光と水滴の間に立ち,そして光源を背にして水滴の方を向いたときだけ,虹に出会うことができる.虹には側面も背面もありはしない.誰も虹の裏側を見ることはできない.このことが,虹から「物」としての身分を奪っている.(物には必ず裏がある.虹には裏がない.それゆえ虹は物ではない.)だが,バラはまちがいなく一個の物である.それゆえ,虹の色は虹という物の性質ではないとしても,バラの赤さはバラという物の性質であると考えることができるのではないか.(Location 2505)
- 野矢茂樹『心という難問───空間・身体・意味』
- オブジェクトの裏側
- 外側からの見ることの集積を内側から見る
- 「見る」が反転する
- 「見る」の集積が反転してできる「虚の視点」
- 前提とする世界の変化
- 「見る」ことの集積として写真・画像があった.それは複製することはできても,3Dモデルに貼り付けられたテクスチャーのように互いに貫入することはなかった.
- 写真や画像はレイヤーのように重なることはあった,けれど,テクスチャーのように貫入することはなかった.
- 3Dモデルに貼り付けられた「見る」こと=テクスチャーでは,写真や画像が前提としてきた世界の概念が更新されている.
- アバター同士やオブジェクトが「貫入」という物理世界に還元不可能な出来事に出会った際にあらわれるテクスチャーの「穴」や「裏」は,コンピュータによる「虚は虚である」という世界の現われなのである.
- コンピュータが示す物理現象に還元不可能な表象はヒトの認識・記憶の更新か,それともバグか?
- マテリアルがそれ自体を示すのではなく,マテリアル同士の関係性を示すものであるとすれば,アバターとオブジェクトとが「貫入」という出来事に出会った際に,テクスチャーの性質が顕わになる.それは「見る」ことの変化であり,「記憶」の変化にもつながっているはずである.
- それは,今では当たり前のことを確認することにつながるだろう.「見る」ことにも,「記憶」することにも,コンピュータが関わっており,その計算から生み出される表象が「見る」ことと「記憶」のあり方を更新している.ただ,ヒトの認識はコンピュータが生みだす物理世界に還元出来ない独自の表象による「見る」と「記憶」の更新に追いつかずに,その表象を単なるバグとして処理してしまう.しかし,「バグ」と見なされるものにこそ,コンピュータの世界が示されるとともに,これからのヒトの認識のあり方が示されている.
- 参考作品
- 谷口暁彦《私のようなもの/見ることについて》2016
- 参考文献
- Daniel Rubinstein and Katrina Sluis, The Digital Image in Photographic Culture: Algorithmic Photography and the crisis of representation in Martin Lister ed., The Photographic Image in Digital Culture (Second edition), Routledge, 2013(Kindle).
- Eyvind Røssaak, Algorithmic Culture: Beyond the Photo/Film Divide in Eyvind Røssaak ed., Between Stillness and Motion FILM, PHOTOGRAPHY, ALGORITHMS, Amsterdam University Press, 2011.
- D. N. Rdowick, The Virtual Life of Film, Harvard University Press, 2007(Kindle).
- 鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』勁草書房,2015.
- 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」,美術手帖 2015年6月号,美術出版社.
- 大森荘蔵「虚想の公認を求めて」,飯田隆・丹治信春・野家啓一・野矢茂樹編『大森荘蔵セレクション』平凡社,2015(Kindle).
- 野矢茂樹『心という難問───空間・身体・意味』講談社,2016(Kindle).