告知:第3回 新・視覚芸術研究会 「デジタル時代の記憶と伝達」


8月20日に「第3回 新/視覚芸術研究会」で「テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶」というタイトルで話します.研究会のタイムスケジュールや趣旨が書かれたPDFはこちらからダウンロードしてください.私の発表の概要は以下のものです.


発表の概要
谷口暁彦の《私のようなもの/見ることについて》に登場するアバターやオブジェクトに貼り付けられたテクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶を考察する.テクスチャーの記憶は表と裏とで異なる意味を伝達するのであろうか.

そして,現時点での発表メモです.

谷口さんから提供してもらったアバター同士が「貫入」しているスクリーンショットから考える.


「見る」ことの集積として写真・画像があった.それは複製することはできても,3Dモデルに貼り付けられたテクスチャーのように互いに貫入することはなかった.写真や画像はレイヤーのように重なることはあった,けれど,テクスチャーのように貫入することはなかった.3Dモデルに貼り付けられた「見る」こと=テクスチャーでは,写真や画像が前提としてきた平面の概念が更新されている感じがあるのではないかのではないか.

3Dモデルに貼られたテクスチャーが「見る」ことの集積だと考えると,アバター同士やオブジェクトが「衝突」した際にあらわれるテクスチャーの「穴」,もしくは,消去されるテクスチャーは何を示しているのであろうか.過去に「見る」ことが,現時点のコンピュータの演算によって消去されて,「穴」のようなものとして示される.その「穴」は何なのか? テクスチャーは記憶や見ることの集積としてあったけれど,「穴」は演算の結果として示されるのかもしれない.

マテリアルがそれ自体を示すのではなく,マテリアル同士の関係性を示すものであるとすれば,アバターとオブジェクトの「衝突」「貫入」という出来事が起きた際に,その表面=テクスチャーの関係性が変化する.そのときにテクスチャー=マテリアルの性質が顕わになる.それは「見る」ことの変化であり,「記憶」の変化にもつながっているのではないだろうか.

それは,今では当たり前のことを確認することにつながるだろう.「見る」ことにも,「記憶」することにも,コンピュータが関わっており,その計算から生み出される表象が「見る」ことと「記憶」のあり方を更新している.ただ,ヒトの認識はコンピュータによる見ると記憶の更新に追いつかずに,その表象を単なるバグとして処理してしまう.しかし,「バグ」と見なされるものにこそ,これからのヒトの認識のあり方が示されているのである.



と,ここまで書いてきて「穴」はあるが,「裏」については何も言っていないことに気づいた…

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