「CursorCamouflage」と「自己喪失」


インタラクション研究の渡邉恵太さんの新作「CursorCamouflage: Multiple Dummy Cursors as A Defense against Shoulder Surfing」.体験してみたいですね.カーソルを操作している本人は,ダミーカーソルがいくらあっても,自分が動かしているカーソルがわかるが,他の人はよくわからないということ.渡邉さんの言葉だと,カーソルがユーザに「帰属」しているということを利用していることになるのかな.

つまり、カーソルが面白く特別なのは、動きが連動することによる自己帰属感の発生であると考えられる。もしカーソルが手元のマウスの「動かし」と無関係であれば、自己へは帰属されず、それはカーソルではない。さらに、重要なことは自分の動かしと連動するということは、透明性を得るということである。           
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カーソルの動きを盗み見しようとする人は,矢印の動きと無関係だから帰属感がないことになる.けれど,動画のコメントに書かれているように注意深く,カーソルと使用者の手とマウスの動きを追っていくと,どのカーソルが本物か当てることができる.このとき,カーソルは観察者にも帰属しているのであろうか.画面上のカーソルとマウスの動きを見て,結びきを推測しているだけなので「帰属」とは違うだろう.「帰属」はもっと直接的なものなんだとと思う.

この動画を見ながら,渡邉恵太さんがだいぶ前に作っていた「自己喪失」を思い出した.カーソルが消える作品を「自己喪失」と名付けていることから,渡邉さんはこのころからカーソルを自分に「帰属」する存在だと考えたかなと思ってしまう.私もカーソルについて結構長い期間考えていると思うのだけれど,渡邉さんはそれ以上にずーっとカーソルのことを考えているのだな.

「自己喪失」と「CursorCamouflage」とを組み合わせたたらどうなるだろうか.これは役にたつとかではなくて,「帰属」の問題を考えるためにやってもらいたいな.「CursorCamouflage」を操作しているときに,突然ダミーのカーソルが消えた時の反応と,自分ものが消えたときとで感じ方にちがいがあるのかどうか.おそらくダミーのカーソルは消えたことにも気づかないということが起るのではないだろうか.自分のカーソルが消えたときには「喪失」が起こりそうだけれども,どうなんだろう.自分のカーソルが消えると同時に,それまでダミーだったカーソルにコントロールが移ったりするとどうなんだろうか.別のカーソルに乗り換えても,すぐに自己帰属感が生じるのかどうか.気になるところです.

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