「幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー」を見た

N-MARK B1で開催されている「幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー」を見たのですが,作品を長い間見ていると自分が何を見ているのか分からなくなってしまい,そのことを考えるために会場がある伏見から鶴舞(3キロほど)まで歩きました.でも,頭はすっきりしませんでした.久しぶりの衝撃でした.

2つの作品が展示してあって,ひとつは「非語辞典」に代表される有限であるけれども無限を感じさせるような文字の組わせを「辞典」にまとめたものです.


上の写真には1冊しかありませんが,これが下の写真のように何十冊もあります(ブレていてタイトルが読めません,すいません).


この作品は知っていたので,会場に向かっていたときに「この圧倒的な量」にリアリティを感じられるのだろうかと考えていました.コンピュータが延々と組み合わせる文字列を印刷して「本」というモノにしていく.モノには重さがあって,この辞典はとても重い.そこで1ページに使われている紙は薄くて,軽いけれどもそれが積み重なると重い.重いし,大きいし,作品を保管するのが大変だと思いつつ,その物量感に作品そのものではなく,搬入が大変だったんだろうなと考えた.

データではなくモノになるとヒトが介入します.作品として作られていくときも,コンピュータからプリントアウトされる「膨大な」紙の束をまとめて,それを製本するのはヒトが行います.「膨大な」というのはヒトが思うことであって,コンピュータはただただ命令にしたがっているだけです.そして,「膨大な」作業して出来上がった本は重い.そして,それを搬入のために運ぶにはどれだけの時間がかったのか.腰を痛めたヒトもいるかもしれない.このように考えてみると幸村先生(私の研究を精神的に支えてくれている人なので「先生」と呼ばせてください)の作品は「コンピュータを制御し,永遠とも思える宇宙的スケールに挑み続けた」と言われることが多いけれど,そこに必ずヒトが介入しないといけないし,「永遠とも思える宇宙的スケール」であるがゆえにヒトにとっては大きな負担になるので,意外ととてもヒト寄りの作品なのかもしれない.

もうひとつの作品は《LIFE LOG》と題された映像作品です.N-markのページに「幸村がこれまでに日常的に撮り溜めてきた300万枚に及ぶ写真.その全ての写真を秒30コマのフレームに落とし込み,約27時間30分間の映像化を目指す」と説明されています.これもまた非語辞典のように膨大な量を用いた作品です.「約27時間30分」の作品のわずか6秒間をVineで撮影しました.女性のとなり座っている方が幸村先生です.



作品は映像だけでなく,画像を大きくプリントアウトしたものが壁に展示されていたり,机のうえに置かれています.300万枚すべてがプリントアウトされているわけではないですが,それでもこれだけの量を見せられると上の非語辞典と同じような,1枚1枚は軽くても多くなるとそれは重くなるといったような感想を抱いてしまいます.

しかし,映像となると全く話が異なります.そこには重さを感じることはありません.感じることがあるとすれば,私はここでは「終わらない」という言葉が思い浮かび,「時間」を感じました.幸村先生が隣の女性に画像をどこで撮ったことなどを説明しているのを聞きながら,「これは幸村先生が生きてきた時間なんだな」と思ったりしました.

作品を見ていて思い出したのはyoupyさんのFlicker:Your photos' photostreamでした.youpyさんのFlickerはRGBの色の組合せをすべて上げるというものです.

youpy:(約)1600万色を入れる予定で.でもいまは500万色ぐらいかな.
渡邉:まあこういうかたちで,1色1色って言ったらいいんですかね……
youpy:そうですね.
千房:RGBの数値を一個ずつずらして,全部上げてくっていうことですよね.
渡邉:256の3乗(=1,677,216)色ってことですね.Flickrという写真共有サーヴィスの上で,そういうことをやっている.いま,世界で一番写真がアップロードされているんでしたっけ?
youpy:Flickrでたぶん一番上がってる.
(一同爆笑)
youpy:これって実際のプログラムは10行ぐらいなんですよ.でも,そんな簡単なものでこれだけインパクトあるものができるのが,インターネットのすごいところだと思って.
座談会「インターネット・リアリティとは?」 

ヒトの目では判別できないような RGBの数値を一個ずつずらした色を500万ちかく(最終的には1,677,216色)ウェブにアップロードする行為と幸村先生がカメラのシャッターを300万回ちかく押す行為,このあいだにちがいはあるのでしょうか.300万回もシャッターを押すという行為は幸村先生がひとつのプログラムとして機能している感じがします.ドイツのメディア論者フルッサーが言うようにカメラという装置とヒトの複合体として,より多くの視点を求めることを自分のなかに内蔵してしまったような感じです.対して,youpyさんは10行位のプログラムによって500万枚の画像をあげています.これは自分の中には複合体としてのプログラムを内蔵しないけれど,コンピュータに命令することで行わせています.非語辞典で延々と文字列を組み合わせる行為と同じことがここで行われていて,それがウェブにアップされています.非語辞典とyoupyさんの試みとのちがいは,youpyさんの作品にまったく「重さ」を感じないで,コンピュータ内で自律しているということでしょうか.では,《LIFE LOG》とのちがいもまた「重さ」というか,そこに「ヒト」の気配を感じさせるかどうかということになるでしょうか.

幸村先生はカメラやコンピュータが持つ特性を自分のなかに埋め込んで,そしてそれを自らの行為で示すの対して,youpyさんはコンピュータがもつ特性を理解して,プログラムとしてコンピュータ内で完結するようにしています.ここにコンピュータに対する意識のちがいがあるかいうと,それはないような気がします.ふたりともコンピュータというものの特性を自分のなかに埋め込むような感覚をもっています.その感覚をどのようなかたちで外にだすのか,その部分がちがいます.幸村先生は自分の身体や他の人の身体をできるかぎり介在させるのに対して,youpyさんは身体をできるかぎり介在させない方向に進んでいます.なので,youpyさんの作品はyoupyさんがこの世からいなくなったあとも,エラーがでて止まることなければ,画像がアップされていきます.となると,やはり《LIFE LOG》はタイトルの文字通り「これは幸村先生が生きている時間なんだな」ということでしょうか.膨大な画像が「永遠とも思える宇宙的スケール」と結びつきつつ,最終的には幸村先生そのものがコンピュータともにあるヒトの現時点でのひとつの極限(もうひとつがyoupyさん?)として現れているといえます.

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