メモ:画像ファイル,パフォーマンス,グリッチ,オリジナルとコピー
美術批評家のボリス・グロイスは「From Image to Image File—and Back: Art in the Age of Digitalization」において,コンピュータがディスプレイに表示している画像はコピーであり,そのオリジナルは「画像ファイル」であり,それ自体は見ることができないものだと考えている.そして,画像ファイルのデータが見えない状況でのみ,デジタル画像はコピーでありながら,画像が表示されるという出来事は「オリジナル」となる.なぜなら,デジタル画像は見ることができないオリジナルのコピーであるから,それをオリジナルと比較するすべがないからであり,そうすると,そこにあるのはオリジナルとコピーという関係というよりも,楽譜に基づいた演奏などに似た一回限りのパフォーマンス的なものになり,楽譜の解釈はその都度「歪み」が入るのが不可避のために,パフォーマンスはすべてオリジナルとなるからである.
グリッチは,グロイスが問題視する画像ファイルの「見えない」領域=オリジナル領域を直接操作して,画像を「破壊」するとされている.グリッチにおいては「見えない」領域は明確に操作可能な見える領域として処理される.そうすると,グロイスが考える「見えない」オリジナルから,パフォーマンス的な意味でのオリジナルな「コピー」画像が生じる前提が崩れることになる.グロイスは「見えない」部分を神聖視しすぎているのではないだろうか.ロサ・メンクマンとucnvとHugh S. Manon and Daniel Temkinの「グリッチ」に関するテキストから,このことを考えてみたい.
ロサ・メンクマンはグリッチは体験するヒトの知覚のなかにのみ存在するとしている.これはグロイスの画像ファイル不可視説と対をなす考えだといえる.グロイスは画像ファイルを不可視にすることで「オリジナル」を現象的なものにしたが,メンクマンはヒトの知覚というブラックボックスを用いることで,グリッチを心象的現象にして「オリジナル」の一回性を保持していると考えられる.グロイスもメンクマンもともに「オリジナル」を重要なものとして考え,それを生み出すために不可視な部分をつくりだしている.
ucnvは「Turpentine」と題されたテキストで「グリッチとは,意図されておらず予測されていなかった状態が再生装置によって再生されることである」と書き,次のように続ける;
「再生-play」という日本語と英語とのちがいからucnvはグリッチを説明する.「再生」とすると同じものが再び生まれるという感じがするが,「play」だとそれはグロイスが書く「パフォーマンス」と結びつき,同じものの再現という感じが薄まる.ここからucnvはグロイスと同様に画面上の画像が表示される度に「オリジナル」なものになっていると想定しているように考えられる.ここでもうひとつ,ucnvが画面上の画像を「オリジナル」と考えている理由を示唆しているテキストを引用したい.
このテキストでは明確に「オリジナル」という言葉が使われている. しかしここでの「オリジナル」はグロイスが使っている意味での「オリジナル」とは異なっている.グロイスの「オリジナル」はパフォーマンスをするさいには必ず解釈に歪みが生じるがゆえに,それは一回きりのものであるという意味であった.しかし,ucnvが使う「オリジナル」は欠損していないデータに基づいて,正常に伝達され表示された像に対して使われている.ここでは,データが破損せずに再生装置による伝達も正常に行われる限り何度でも「オリジナル」像が表示されることが想定されている.ここでは「データ」は破損するものになっている.「破損」しているかどうかが分かるということは,ucnvにとって画像ファイルは見えるものとなっている.つまり,グロイスが不可視の領域としたものを可視的なものとしているのである.ここでの画像ファイルは「不可視な領域」ではなく,想定されたオリジナルな像を表示するために,正常に働くべくひとつの再生装置に組み込まれたひとつのパーツとして機能している.ucnvにとって重要なのは画像ファイルを操作して「オリジナルの像の中に存在していなかった像」をつくりだすことであり,その過程で画像ファイルは可視化される.ここで求められているのはオリジナルであることではなく,オリジナルからの逸脱である.
Hugh S. Manon と Daniel Temkinは Note on Glitch で「ファイルを壊すことは壊れたコピーを作ることであり,それはオリジナルを変形することではない.この意味ではすべてのグリッチは「undo[やり直し]」操作が埋め込まれている.理論的には,オリジナルは利用可能な状態で残される」と書いている.ManonとTemkinはいとも簡単に不可視な領域のファイルをコピーしてしまう.ここでのファイルは何度でもコピー可能なものであり,ここでの「オリジナル」という言葉の意味はやり直しを可能にするために最初の状態を保っているということにすぎない.また彼らは,グリッチはプログラムの文字列をいじることで生じるため,そこから作られる画像は壊れているようにみえるが,実は何度でも同じものがつくれるものであるとも書いている.ManonとTemkinはグロイスが見えない部分といったものを「すべての Q を 9hJ に置き換える」といった,とても簡単なコマンドでいじってしまう.この根本には画像ファイルは「見えない領域」ではなく可視的であり,しかも「言語」で構成されているから厳密に操作できるということがある.
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グリッチは,グロイスが問題視する画像ファイルの「見えない」領域=オリジナル領域を直接操作して,画像を「破壊」するとされている.グリッチにおいては「見えない」領域は明確に操作可能な見える領域として処理される.そうすると,グロイスが考える「見えない」オリジナルから,パフォーマンス的な意味でのオリジナルな「コピー」画像が生じる前提が崩れることになる.グロイスは「見えない」部分を神聖視しすぎているのではないだろうか.ロサ・メンクマンとucnvとHugh S. Manon and Daniel Temkinの「グリッチ」に関するテキストから,このことを考えてみたい.
ロサ・メンクマンはグリッチは体験するヒトの知覚のなかにのみ存在するとしている.これはグロイスの画像ファイル不可視説と対をなす考えだといえる.グロイスは画像ファイルを不可視にすることで「オリジナル」を現象的なものにしたが,メンクマンはヒトの知覚というブラックボックスを用いることで,グリッチを心象的現象にして「オリジナル」の一回性を保持していると考えられる.グロイスもメンクマンもともに「オリジナル」を重要なものとして考え,それを生み出すために不可視な部分をつくりだしている.
ucnvは「Turpentine」と題されたテキストで「グリッチとは,意図されておらず予測されていなかった状態が再生装置によって再生されることである」と書き,次のように続ける;
ところで,ここではやむなく「再生」という単語を用いているが,再生とは play の意味であり,再生装置とは player の意味で あるとあえて明示しておきたい.というのも,正確にはグリッチは「再」生ではないからだ.
「再生-play」という日本語と英語とのちがいからucnvはグリッチを説明する.「再生」とすると同じものが再び生まれるという感じがするが,「play」だとそれはグロイスが書く「パフォーマンス」と結びつき,同じものの再現という感じが薄まる.ここからucnvはグロイスと同様に画面上の画像が表示される度に「オリジナル」なものになっていると想定しているように考えられる.ここでもうひとつ,ucnvが画面上の画像を「オリジナル」と考えている理由を示唆しているテキストを引用したい.
グリッチと呼ばれる状態には,必ず再生装置が存在する.そしてそのとき,再生装置は意図されていなかった像を再生している.再生不能ではないが,意図されている再生ではない状態.そこでは,オリジナルの像の再現という,データやメディアが再生装置に対して依頼した内容は,データやメディアが破損しているために正常に伝達されず,再生装置によって意図から逸脱した解釈をされ,予測されていない,想定からズレた像が,あらたに表出している.グリッチとは,オリジナルの像の中に存在していなかった像が再生装置によって生成されている状態である.そういった意味で,グリッチは「再」生ではない.
このテキストでは明確に「オリジナル」という言葉が使われている. しかしここでの「オリジナル」はグロイスが使っている意味での「オリジナル」とは異なっている.グロイスの「オリジナル」はパフォーマンスをするさいには必ず解釈に歪みが生じるがゆえに,それは一回きりのものであるという意味であった.しかし,ucnvが使う「オリジナル」は欠損していないデータに基づいて,正常に伝達され表示された像に対して使われている.ここでは,データが破損せずに再生装置による伝達も正常に行われる限り何度でも「オリジナル」像が表示されることが想定されている.ここでは「データ」は破損するものになっている.「破損」しているかどうかが分かるということは,ucnvにとって画像ファイルは見えるものとなっている.つまり,グロイスが不可視の領域としたものを可視的なものとしているのである.ここでの画像ファイルは「不可視な領域」ではなく,想定されたオリジナルな像を表示するために,正常に働くべくひとつの再生装置に組み込まれたひとつのパーツとして機能している.ucnvにとって重要なのは画像ファイルを操作して「オリジナルの像の中に存在していなかった像」をつくりだすことであり,その過程で画像ファイルは可視化される.ここで求められているのはオリジナルであることではなく,オリジナルからの逸脱である.
Hugh S. Manon と Daniel Temkinは Note on Glitch で「ファイルを壊すことは壊れたコピーを作ることであり,それはオリジナルを変形することではない.この意味ではすべてのグリッチは「undo[やり直し]」操作が埋め込まれている.理論的には,オリジナルは利用可能な状態で残される」と書いている.ManonとTemkinはいとも簡単に不可視な領域のファイルをコピーしてしまう.ここでのファイルは何度でもコピー可能なものであり,ここでの「オリジナル」という言葉の意味はやり直しを可能にするために最初の状態を保っているということにすぎない.また彼らは,グリッチはプログラムの文字列をいじることで生じるため,そこから作られる画像は壊れているようにみえるが,実は何度でも同じものがつくれるものであるとも書いている.ManonとTemkinはグロイスが見えない部分といったものを「すべての Q を 9hJ に置き換える」といった,とても簡単なコマンドでいじってしまう.この根本には画像ファイルは「見えない領域」ではなく可視的であり,しかも「言語」で構成されているから厳密に操作できるということがある.
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クレア・ビショップは「言語」という要素がデジタル技術と現代美術界との関係をこじれたものにしていると考えている[digital divide : contemporary art and new media].ビショップによると現代美術界は写真やヴィデオなどのあたらしい技術を常に取り入れてきたのだが,デジタル技術に対してはどこかに「デバイド[格差]」があるとしている.そしてその理由としてビショップは,デジタル技術が通常は認識できない「コード」に構成されており,しかもそれが視覚的なものはなく,言語的なものであることを挙げている.ビショップはグロイスとは異なり「見えない」領域が「見える」領域を成立させていることはさほど問題にしていない,それよりも「見えない」領域が「言語的モデル」で構成されているという部分を重要視する.双方ともに「見える-見えない」領域をもちながらも,その「見えない領域」が写真やヴィデオは視覚的でありデジタルは言語的であるという決定的な差が,現代美術界におけるデジタルデバイドを引き起こしているということになる.となると,グロイスもデジタルデバイドのなかにあるということかもしれない.同時に,グリッチが現代美術に受け入れられにくい状況にあるのも,それが視覚的表現でありながら,根本に「言語操作」が入り込んでいるからなのかもしれない.