光の「廊下」:ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学



十和田市現代美術館で「ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学」展を見た.今回,ラファエル・ローゼンダールは作品で「廊下」をつくろうとしたような気がする.今回のメインの展示と言えるローゼンダールの110個以上あるウェブサイトから16個選び,2分ずつにまとめた計32分の映像作品《Looking at Something (selected Websites)》は,展示室の2つの壁面に4つずつ縦長に映像を投影していた.8個の同じ映像の中央を歩いているときに,ローゼンダールは映像の「廊下」をつくろうとしたのではないかと思った(展示の画像はローゼンダールのサイトが見やすい→Generosity at Towada Art Center Japan).それは,十和田市現代美術館自体が展示室を「廊下」で結ぶ構造になっていることから着想を得たのだろう.

十和田市現代美術館の建築も,この考えを表しているように見えます.たくさんの展示室が廊下でつながったこの建築で,来館者が明るい廊下を渡って,部屋から部屋へと移動していくとき,脳や思考の違う部分同士が接続しあい,ひとつの世界そのものになっているように感じられます.そのため,十和田市現代美術館の建築は自分の作品にぴったり合うのではと考えました.  
作家メッセージ

《Haiku》はまさに「廊下」に展示されていた.ウェブサイトを見ているときのように,正面から見るのではなく,もちろん,今回の展示形式でも正面から見れるけれど,それよりも,視野の両側で動き続ける作品を見ながら,映像の壁に囲まれた「廊下」を歩くという体験が新鮮であった.


《Haiku》壁面にペイント,切り文字,2013-2015
普段のコンピュータのディスプレイで見る形式とは異なるのだから,作品が新鮮に見えるのは当たり前だけれど,それでも,いつも以上にローゼンダールの作品がフラットに見えたことが驚きであった.彼の作品はもともとフラットなものが多いので,これも今回特有のことではないかもしれない.けれど,それでもローゼンダールの作品がこれまで以上にフラットで,プロジェクターがつくる光のサーフェイスに閉じ込められている感じがあった.その平面が抜け出そうとしているように見える映像もあれば,そのサーフェイスで自由に遊んでいるような映像もあった.8個の巨大な映像でできた光の廊下を歩きながら,作品を見ていると,映像は視野のはしでどんどんフラットになっていった.そして,自分は映像の色に染めれていた.作品を構成する光が空間を再構成していく感じは,どこか,ダン・フレイヴィンの蛍光灯の作品を思い出した.


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