💬《I randomly love you / hate you》💬


水戸芸術館「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」に出品されているエキソニモの新作《I randomly love you / hate you》を考えたい.インターフェイスだけを切り出してきて,ディスプレイに表示する.インターフェイスを問題にしてきたエキソニモがこのような作品をつくることが面白い.ディスプレイに表示されているのは,操作可能性を失ったサーフェイスであるが,それはインターフェイスを切り取ったものである.インターフェイスがディスプレイに表示されている.このことだけを考える必要がある.インターフェイスのレイヤーのみを切り取った.インターフェイスをハードウェアとのつながりを切り取り,ソフトウェアとしての見た目を切り取る.そこに意味を吹き込む.操作はできないが,意味が生じる.その意味が重要なのかもしれないし,操作ができないインターフェイスが重要なのかもしれない.

ディスプレイも必要としないのかもしれない.切り取られたインターフェイスが表示されるサーフェイスだけがあれば良い.ディスプレイは仕方なくそこにあって,実際にはインターフェイスのイメージだけがそこにあればいい.だから,ディスプレイが支持体であるというよりも,ディスプレイがコンピュータに接続されていることを示すコードとそこから発生するイメージこそが強固な存在としてあるのではないか.《I randomly love you / hate you》は,とてもペラっとしてはいるが強固なサーフェイスを感じさせる.見ているものが何であるのかを考えさせられる気がする.メッセージアプリのインターフェイスと言えばそうなんだけれど,そのインターフェイスのみを剥ぎ取ったとき,剥ぎ取られたインターフェイスは何と言えばいいのか.


《I randomly love you / hate you》はサーフェイスのその先が一見見ないように感じられる.けれど,💬の表示がどこかに,隣のディスプレイとのつながりを示し,一つので完結したサーフェイスではないことを示している.何か,その表面以外の気配を示すこと.それは,インターフェイスではないのか.最小の要素でサーフェイスをインターフェイス化しているのが,《I randomly love you / hate you》ではないのだろうか.では,どうしてそれが可能なのか.私たちは何を《I randomly love you / hate you》に見ているのであろうか.テキストを読むことによって生じる意味とディスプレイの表示との関係とを考える必要があるのではないだろうか.文字の意味だけではなく,インターフェイスも考える.そして,壁というサーフェイスに文字を画くローレンス・ウェイナーと比較しながら,インターフェイスの延長にあるサーフェイスとして考えてみてもいいのではないだろうか.


考察の続き
💬《I randomly love you / hate you》💬《Message》💬 

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