シンポジウムの個人的振り返り


スライドのPDF.発表の音声データ

発表のはじめに「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件」から「ポスト・インターネットにおける画像について」とタイトルを変更した.でも,先のタイトルはマクルーハンに引きつけられているので,「ポスト・インターネット」と言った方が発表にあっているかなと思ったからですが,今あらためて考えてみると「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件で成立する」とすればよかったのかなと思う.いや,発表にもでてくるけれど,「画像は2ないしそれ以上の状態[XYZ軸]を包含する可変的条件で成立する」とすればよかったのかもしれない.

ポスト・インターネットでの画像はXVY軸で成立している.XYZ軸というのはレイヤー構造をZ軸にするということだけではなくて,そのZ軸というのはこれまでの画像のありかたにあたらしく付け加わった「Instagram」などウェブサービスも含めるような画像のあり方を拡大したものが入る軸と考えればいいだろうか.

帰りのタクシーのなかでインターネット・リアリティ研究会でいっしょの渡邉朋也さんに「水野さんは画像と写真をどのように考えているのですか?」と聞かれた.そのとき,ジャン・ボードリヤールが『消滅の技法』で

写真の強度は,どこまで現実のものを否定し,新しい場面を作り出すことができるか,によって決まる.ある対象[オブジェ]を写真に変換するということは,そこからあらゆる特性をひとつひとつ引き剥がしてくることだ───重さ,立体感,匂,奥行き,時間,連続性,そしてもちろん意味を.このように実在を削ぎ落としていくという代価を払って,イメージは魅惑する力を身につけ,純粋に対象を志向する媒体となり,そしてモノの一層狡猾な誘惑の形態を透かしてみせる.もっとよくしよう,もっとリアルにしよう,つまり,もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている.(p.10)

と書いているところから,特性を引き剥がしていって「1」となっているものが「写真」で,次元をひとつひとつ付け加えて「2以上」になっているのが「画像」と答えた.上のXYZ軸と絡めて考えると,写真は「XY軸」で表現していくもので,画像は「XYZ軸」で表現していくとなるだろうか.Z軸にはPhotoshopでの「レイヤー」もあるし,iPhoneでどのアプリで撮影しようかなという部分ですでにアプリがZ軸に入って,何かを付け足している感じがする.アプリを選ぶということは,撮影したものを「次に」どうするかも選択しているわけだから,その選択の時点で「写真」に何か気分や雰囲気的なものが付け加えられていると考えられる.このように考えると撮影の際に「カメラ」を変えることもすでにアプリを選ぶのと同じなのではないかと思えてきた.「カメラ」を変えることと「アプリ」を変えることにちがいはあるのだろうか.撮影後にすぐに「加工」が加えられたり,「共有」できるところのちがいだろうか.気分をすぐに反映できる,そのリアルタイムさがちがうのだろうか.

港千尋さんが基調講演で「暗室としてのデータセンター」とGoogleの言葉を紹介しながら話をしてれたが,データセンターが撮影行為の後ろにあるかどうかもZ軸に含められるだろう.スタンドアローンのカメラで撮影されたものが「写真」でデータセンターと繋がっているものが「画像」なのか.スタンドアローンのカメラで撮影されたものが「Photoshop」で編集されたらそこで「Z軸」が付け加えられて「写真」から「画像」になるのだろうか.このように考えると今の世の中で「写真」を探すことはとても難しいように思えてくる.とりあえず,多くの可変的条件があり,そのなかで動き続けているのが「画像」と考えておくことにする.

新津保建秀さんは,「写真」というのは「無意識が立ち上がる場の設定」ではないだろうかと言われていた.この考えでいくと「写真」がカバーできる範囲はとても広くなる.それは「写真」と呼ばれるものでなくてもよくなる.「写真家」の新津保建秀さんがこの言葉を言うことは,「写真」とその意識がとても広い範囲をカバーするものになっているのではないだろうか.

イメージとオブジェクトを連続的遷移のなかで捉えるアーティ・ヴィアーカントは.その連続的遷移をフレーミングして,イメージとオブジェクトとが入り混じるような場を設定する.僕はそれをウェブとリアル,イメージとオブジェクト双方に影響を同時に与える「調整レイヤー」を重ねて世界を見て,操作することだと考えた.でもそれは「レイヤー」という言葉ではなくて,「調整フレーム」といった方がいいのかもしれない.でも,可変的なZ軸を挿入するイメージでは「調整レイヤー」のままがいいのかもしれない.要は,ウェブとリアル,イメージとオブジェクトと言った二項対立を対立のままではなく,そのあいだを調整していく「場」をつくることが必要だし,ポスト・インターネット的状況にある多くのアーティストが実践していることなのかなと思う.

この行為は「無意識が立ち上がる場の設定」とちかいものなので,とても写真的と言える.写真的に一度切り取って「1」にしたものを,再び可変の状態にして「2以上」にしていくことを良しとすることが重要なことなのかもしれない.その際に「2以上」にしていくときに,見る人の意識なかでどこまでが可変的条件になるのかを見極める必要があるだろう.「データセンター」を意識できるか,その先の「リアル展示」を意識できるか,そこで行われた「Photoshopの操作」を意識できるか.

このような表現が受け入れられているのは,私たちが普段から「写真」を撮影するという行為を借りながら,それを即座に「画像」にしていくことをしているからであろう.撮影で切り取り,それを加工する・しないを選択して,ウェブサービスを選択してアップロードする.ウェブサービスにアップロードしない人は「しない」という選択をしていることになる.そういた二項の選択を日常的に行っている状態はなかったと思われる.だからこそ,その二項のあいだを調整していくフレーム/レイヤーを与えることが求められているのではないだろうか.

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