ISEA2014ためのインターネットヤミ市の考察(案)
インターネットヤミ市の「ヤミ」は「ブラックマーケット」と「病む」とふたつの意味をもっている.違法のものは売れない明るいブラックマーケットしてのヤミ市.フェティシュで中毒性が高くてどんどん病んでいく,ネットにずぶずぶと入り込んでいくような感覚を示すヤミ市.インターネットに入り込んでいくような感覚なのに,インターネットヤミ市はリアルで行われていて,現地に行かなければ買えない残念なECになっている.もちろん,ここでの「残念」はポジティブな意味である.さやわかさんの『10年代文化論』で示されたポジティブな意味での「残念」感をヤミ市は共有している.
その「残念」を示すために,IDPWが選択したのは「turn off, log-out, and drop in on the real world for a change」であった.もともと設定がゆるくて自由であったインターネットが,近頃,窮屈になってきたことから,そこから,コンピュータの電源を切って,ログアウトして,リアルに飛び降りようという感じだろうか.ログインをして自由の世界に行っていたのは全く別のことを行う.そこには,ログオフしてもインターネットの感覚,インターネットっぽさはもう僕たちの身体に入り込んでいるという確信があったのだろう.それは単に「インターネットは自由だ」と言うだけよりも,インターネットを信頼しているし,僕たち自身の感覚も信頼している感じがする.インターネットと身体を信頼することで,お金まみれのカリフォルニア・イデオロギーの「自由」の欺瞞を乗り越えてしまう.
インターネットヤミ市はインターネットのゆるい設定に,自身の感覚と身体をインストールして,インターネットとともにあるリアルを書き換えてしまう.そして,ヤミ市はインターネット自体を二次創作していく.
つまり,はちゅねミクやネギなどの「残念」な味付けは,このキャラクターは「何でもあり」なのだということを表す記号になっているわけだ.初音ミクはクールなイメージで使ってもいいし,バカバカしいことに使ってもいい.「残念」な要素はそれ自体が持つコミカルな意味以上に,初音ミクが持つ自由な象徴としてあるのだ.(p.71)
さやわかさんが初音ミクの設定のゆるさが自由の象徴として,その後の多種多様な表現に結びついたと指摘するように,IDPWはインターネットに自らあらたな設定を書き込んでいく.
それはインターネットの「余白」を意識していくことだといえる.最初は設定がほとんどされていなかったインターネットが,GoogleやFacebook,Twitterなどによって設定されていっていくなかで,それでも残っている「余白」を見つけていくこと.そのひとつの手段が,インターネットの感覚を信頼して,リアルな場にダウンロードして,インストールしてしまうことだった.ヤミ市を海外に説明する際に使われている「蚤の市」は,古いものをリサイクルする場であるが,ヤミ市はインターネットそのものをリアルの場でリサイクルして,あたらしい意味づけを行おうとしている.
インターネットヤミ市はインターネットの余白を見つけて,それをリサイクル,二次創作して,あたらしい意味を与えていく.それはインターネットを使ってリアルの意味を反覆させるものでもないし,その逆でもない.海外のネットアートがネットとリアル=アートワールドの関係インターネットの関係性を反覆させる敵対的なものと捉えていたのとは異なる感覚で,インターネットヤミ市はネットとリアルとに接している.それは英語圏のネットアーティストと異なりヤミ市は,アートマーケットとそれを含むアートワールドのような反覆させるべき対象を持たないからであろう.それゆえにネットとリアルの「余白」を強く意識して,その「余白」を押し広げる方法論になっているのだろう.
今日の用語法で「芸術」と呼ばれている作品を,「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし,この純粋芸術とくらべると俗悪なもの,ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)と呼ぶこととし,両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにして見よう.(p.14)
鶴見俊輔は『限界芸術論』のなかで芸術を「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」と3つに分けたが,ここで「限界」に当てられている「marginai」という単語は「余白」という意味ももつ.ヤミ市はネットとリアルの「余白」を押し広げつつ,「純粋芸術」とも「大衆芸術」とも異なる「限界芸術」となっているのではないだろうか.