シンポジウムのための抜き書きとメモ
「シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容」のための抜き書きとメモ
メディア論,マーシャル・マクルーハン
電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165)
Most scientists are quite aware that since we have acquired some knowledge of electricity it is not possible to speak of atoms as pieces of matter. Again, as more is known about electrical "discharges" and energy, there is less and less tendency to speak of electricity as a thing that "flows" like water through a wire, or is "contained" in a battery. Rather, the tendency is to speak of electricity as painters speak of space; namely, that it is a variable condition that involves the special positions of two or more bodies. There is no longer any tendency to speak of electricity as "contained" in anything. Painters have long known that objects are not contained in space, but that they generate their own spaces. (p.460)
Inside Photoshop, Lev Manovich
http://computationalculture.net/article/inside-photoshop
Photoshopのレイヤーの裏には,別個に再編集可能で,あたらしイメージに再配置できる要素の集まりとしてイメージを扱うというプログラムと同じ考え方がある.重要なのは,Photoshopがデジタル・コンポジションの原理をいち早く定義していたところで開発されていたということだ.Photoshopの最初のバージョンがトーマス・ノールとジョン・ノールの兄弟によって書かれていた1988年,トーマスはミシガン大学の博士課程を半年休学して,弟が働いていたILMに参加したのである.
消滅の技法,ジャン・ボードリヤール
写真の強度は,どこまで現実のものを否定し,新しい場面を作り出すことができるか,によって決まる.ある対象[オブジェ]を写真に変換するということは,そこからあらゆる特性をひとつひとつ引き剥がしてくることだ───重さ,立体感,匂,奥行き,時間,連続性,そしてもちろん意味を.このように実在を削ぎ落としていくという代価を払って,イメージは魅惑する力を身につけ,純粋に対象を志向する媒体となり,そしてモノの一層狡猾な誘惑の形態を透かしてみせる.もっとよくしよう,もっとリアルにしよう,つまり,もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている.(p.10)
>Compression Artifacts は「もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている」を良しとする.できるだけそぎ落として「1」にしていくのではなく,要素を付け足して「2」以上の関係として画像を仕立てていく.
>>ボードリヤールが言っている意味では「スクリーンショット」の写真としての強度は強い.スクリーンショットはソフトウェアの機能を削ぎ落とし,数値=概念で指定された色のみを記録する.スクリーンショットは実在を削ぎ落として,その概念=コンセプトのみを記録する.この意味で,新津保建秀が『\風景』でスクリーンショットを「写真」として扱ったのは正しい.しかし,そこに留まってられないのが「今」という時代である.「写真」としての強度が強ければ強いほど,逆説的にスクリーンショットは「スクリーンショット」という写真ではないものとして扱われる.写真というひとつの存在に収斂してしまってはダメなのだ.スクリーンショットは写真になってはいけない.スクリーンショットはスクリーンショットであり続ける必要があり,そのためにはスクリーンショットが写真をシュミレートしているように見せかけなければならない.それがスクリーンショットという概念の塊に「物性」を与えるプリントという技術であり,それをまとめた「写真集」というメディアなのである.
Joshua Citarella
http://joshuacitarella.com/artifacts.html
The presence of graphics editing software has allowed increasingly hyperbolic descriptions to pass under the same critical rubric as conventional lens based photographs. As a means of documentation, conventional photography aims towards the most perfect reproduction, to close the gap between the world and its picture, while software aims to close the gap between the world and its image; not its visuality but its conception. At all instances software has been written to deliver digital captures into their ideal states, to unburden photographic images from the constraints of material, time and space.
グラフィック編集ソフトの登場は従来のレンズを用いた写真という重大な表題のもとで徐々に誇張的な表現を許すようになってきた.記録の手段として,従来の写真はほぼ完璧な再現をすることを目標として,世界とその画像のギャップをなくそうとしてきた.対して,ソフトウェアはそのイメージと世界とのあいだのギャップをなくそうとする.それは視覚的表現ではなく,コンセプトを追求していくということである.すべての事例において,ソフトウェアはデジタル的に捉えたものをその理想的な状態へとするように書かれており,写真的イメージを物質的,時間と空間の制約から解き放つ.
Artie Vierkant
Photography Stef Mitchell Interview Thor Shannon, NYU
http://artievierkant.com/pdfs/OutOfOrder_Vierkant.pdf
Every single image can be an object, and vice versa. And every image and every object can be part of a succession of different images and objects thereafter. I think that notion of the object was probably the primary motivating factor that I was thinking about while I was trying to frame the Image Objects for myself. When you have an object, even a mass-produced object, it doesn't really have a fixity anymore. You can take an image of it and do something else with it, you can take an object and do something else with it…You can perform a bunch of different DIY operations on either: scan it, alter it, make it your own. Acknowledging that lack of fixity is very interesting, and important, to me, and to the work I create in turn.
すべてのイメージはオブジェクトであり,その逆もある.そしてそれ以降,すべてのイメージとオブジェクトは異なったイメージとオブジェクトの遷移の一部となれる.私が自分にとってのイメージオブジェクトの枠組みをつくろうとしているあいだ,オブジェクトに関する考えは最も重要なやる気を起こさせる要素であった.あなたがひとつのオブジェクトを持つとき,それが大量生産されたオブジェクトであっても,それはもはや不変のものではない.あなたはそれのイメージを撮影できるし,他のこともでき,オブジェクトを持っていくことも,それで何かすることもできる.また,それをスキャンして,別のものにして,あなただけのものにするといった日曜大工的なこともできる.不変であることの欠如を認めることはとても興味深く,重要なことであって,今度は私がそのように作品をつくる.
メディア論,マーシャル・マクルーハン
電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165)
Most scientists are quite aware that since we have acquired some knowledge of electricity it is not possible to speak of atoms as pieces of matter. Again, as more is known about electrical "discharges" and energy, there is less and less tendency to speak of electricity as a thing that "flows" like water through a wire, or is "contained" in a battery. Rather, the tendency is to speak of electricity as painters speak of space; namely, that it is a variable condition that involves the special positions of two or more bodies. There is no longer any tendency to speak of electricity as "contained" in anything. Painters have long known that objects are not contained in space, but that they generate their own spaces. (p.460)
Inside Photoshop, Lev Manovich
http://computationalculture.net/article/inside-photoshop
Experience has taught us to break down large bodies of source code into separate modules in order to save compilation time. An error in one routine forces only the recompilation of its module and the relatively quick reloading of the entire program. Similarly, small errors in coloration or design in one object should not force “recompilation” of the entire image.
Thomas Porter and Tom Duff, "Compositing Digital Images", Computer Graphics vol.18, no.3 (July 1984): 253-259. (up)The same idea of treating an image as a collection of elements that can be changed independently and re-assembled into new images is behind Photoshop Layers. Importantly, Photoshop was developed at the same place where the principles of digital compositing were defined earlier. The first version of the program was written by brothers Thomas and John Knoll when Thomas took a six-month leave from the PhD program at the University of Michigan in 1988 to join his brother who was then working at ILM.
経験は編集の時間を短縮するために,巨大なソースコードをいくつかのモジュールにすることを教えてくれた.ひとつのルーティンなエラーは該当のモジュールを再編集するだけすむし,すべてのプログラムをリロードするよりは比較的速くできる.同様に,着色の小さなエラーやオブジェクトのデザイン変更でイメージすべてを「再編集」すべきではない.
Photoshopのレイヤーの裏には,別個に再編集可能で,あたらしイメージに再配置できる要素の集まりとしてイメージを扱うというプログラムと同じ考え方がある.重要なのは,Photoshopがデジタル・コンポジションの原理をいち早く定義していたところで開発されていたということだ.Photoshopの最初のバージョンがトーマス・ノールとジョン・ノールの兄弟によって書かれていた1988年,トーマスはミシガン大学の博士課程を半年休学して,弟が働いていたILMに参加したのである.
消滅の技法,ジャン・ボードリヤール
写真の強度は,どこまで現実のものを否定し,新しい場面を作り出すことができるか,によって決まる.ある対象[オブジェ]を写真に変換するということは,そこからあらゆる特性をひとつひとつ引き剥がしてくることだ───重さ,立体感,匂,奥行き,時間,連続性,そしてもちろん意味を.このように実在を削ぎ落としていくという代価を払って,イメージは魅惑する力を身につけ,純粋に対象を志向する媒体となり,そしてモノの一層狡猾な誘惑の形態を透かしてみせる.もっとよくしよう,もっとリアルにしよう,つまり,もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている.(p.10)
>Compression Artifacts は「もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている」を良しとする.できるだけそぎ落として「1」にしていくのではなく,要素を付け足して「2」以上の関係として画像を仕立てていく.
>>ボードリヤールが言っている意味では「スクリーンショット」の写真としての強度は強い.スクリーンショットはソフトウェアの機能を削ぎ落とし,数値=概念で指定された色のみを記録する.スクリーンショットは実在を削ぎ落として,その概念=コンセプトのみを記録する.この意味で,新津保建秀が『\風景』でスクリーンショットを「写真」として扱ったのは正しい.しかし,そこに留まってられないのが「今」という時代である.「写真」としての強度が強ければ強いほど,逆説的にスクリーンショットは「スクリーンショット」という写真ではないものとして扱われる.写真というひとつの存在に収斂してしまってはダメなのだ.スクリーンショットは写真になってはいけない.スクリーンショットはスクリーンショットであり続ける必要があり,そのためにはスクリーンショットが写真をシュミレートしているように見せかけなければならない.それがスクリーンショットという概念の塊に「物性」を与えるプリントという技術であり,それをまとめた「写真集」というメディアなのである.
Joshua Citarella
http://joshuacitarella.com/artifacts.html
The presence of graphics editing software has allowed increasingly hyperbolic descriptions to pass under the same critical rubric as conventional lens based photographs. As a means of documentation, conventional photography aims towards the most perfect reproduction, to close the gap between the world and its picture, while software aims to close the gap between the world and its image; not its visuality but its conception. At all instances software has been written to deliver digital captures into their ideal states, to unburden photographic images from the constraints of material, time and space.
グラフィック編集ソフトの登場は従来のレンズを用いた写真という重大な表題のもとで徐々に誇張的な表現を許すようになってきた.記録の手段として,従来の写真はほぼ完璧な再現をすることを目標として,世界とその画像のギャップをなくそうとしてきた.対して,ソフトウェアはそのイメージと世界とのあいだのギャップをなくそうとする.それは視覚的表現ではなく,コンセプトを追求していくということである.すべての事例において,ソフトウェアはデジタル的に捉えたものをその理想的な状態へとするように書かれており,写真的イメージを物質的,時間と空間の制約から解き放つ.
Artie Vierkant
Photography Stef Mitchell Interview Thor Shannon, NYU
http://artievierkant.com/pdfs/OutOfOrder_Vierkant.pdf
Every single image can be an object, and vice versa. And every image and every object can be part of a succession of different images and objects thereafter. I think that notion of the object was probably the primary motivating factor that I was thinking about while I was trying to frame the Image Objects for myself. When you have an object, even a mass-produced object, it doesn't really have a fixity anymore. You can take an image of it and do something else with it, you can take an object and do something else with it…You can perform a bunch of different DIY operations on either: scan it, alter it, make it your own. Acknowledging that lack of fixity is very interesting, and important, to me, and to the work I create in turn.
すべてのイメージはオブジェクトであり,その逆もある.そしてそれ以降,すべてのイメージとオブジェクトは異なったイメージとオブジェクトの遷移の一部となれる.私が自分にとってのイメージオブジェクトの枠組みをつくろうとしているあいだ,オブジェクトに関する考えは最も重要なやる気を起こさせる要素であった.あなたがひとつのオブジェクトを持つとき,それが大量生産されたオブジェクトであっても,それはもはや不変のものではない.あなたはそれのイメージを撮影できるし,他のこともでき,オブジェクトを持っていくことも,それで何かすることもできる.また,それをスキャンして,別のものにして,あなただけのものにするといった日曜大工的なこともできる.不変であることの欠如を認めることはとても興味深く,重要なことであって,今度は私がそのように作品をつくる.