下條 「環境知能」と言うとき,比較的欠けているなと思った視点は,身体や皮膚の感覚,あるいはシンボリックにいく前のサブシンボリックな知能なんです.どういう意味かというと,子供がおもちゃに対してインタラクトしているとき,そのおもちゃにどういう機能があるかなんていう表象を頭のなかにつくらなくても反射的に手を出しているわけです.あるいはそこに本があれば何となくページをめくっているとかね.そうした,ピアジェが言うところの,表象より前の段階の感覚運動知能みたいなものは,安全な言い方をすればそういう研究は将来必要となるでしょう,という言い方になるのですが,そんなことをいっているあいだに,近未来において粗暴なかたちで吹き出てくるんじゃないかなという気がしているんです.(pp.150-151) 環境知能と環境管理をめぐって,東浩紀+下條信輔 司会=NTTコミュニケーション科学基礎研究所 in 環境知能のすすめ:情報化社会の新しいパラダイム ここで言われている「サブシンボリックな知能」という言葉で,昔の発表をまとめ直してみたいと思っている.プレシンボリックな知能/行為|Doing with Images makes Symbols|アレゴリー的思考 −− インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか. Re-thinking the interface: What is the meaning of Alan Kay's"Doing with Images makes Symbols" 水野勝仁 Masanori MIZUNO 名古屋大学大学院情報科学研究科博士後期課程 Nagoya University, School of Information Science Abstract Alan Kay created a slogan for development of user interfaces: Doing with Images makes Symbols. This reveals the essence of the Graphical User Interface (GUI) which millions...
1945年のヴァネバー・ブッシュの「As We May Think」から始まる,膨大な情報量を処理していくためのヒトとコンピュータとのあいだのコミュニケーション/インタラクションをよりよくしていく壮大な夢.それが,ひとまず,1984年のアップルのマッキントッシュで終わると考える. 1989年のジェフリー・ショーの《レジブルシティ》からはじまる.コンピュータを使ってより自由なインタラクションを創造していくというきらびやかな夢.このラインとは別のところで,コンピュータ科学者がいろいろなインターフェイスを創造していたのだろうけれど,1989年から1998年は,アートにおけるインタラクションの追求の方が,やはりきらびやか.もしくは,新しく開発されたインターフェイスが魅力を放つところとして,アートが機能していたのかもしれない.ここにメディアへの批判的まなざしがあったのかは考えないといけないところだが. 1998年以後,つまりグーグル以後は,再びアートよりも,ユーザ・インターフェイスの研究の方が目立つ.メディアアートやネットアートが掲げ,それを捉えようとしていた大きな夢を,グーグルやフェイスブック,ツイッター,Wii,Kinect が実現していっている感じがする. ユーザ・インターフェイスが夢を見て,それを土台にメディアアートがさらに夢を見て,それらの夢をネットやゲームが実現していっているような.この実現からさらにアートはさらに夢を見るのか,それともそれを批判していくのか.