ISEA2014の500w_アブストラクトのためのメモ_2
Julian Stallabrassによれば,ネットアートは非物質せいゆえに美学的アピールが弱いとされてきた.しかし,コンテンポラリーアートもどんどん非物質性を帯びるようになってきた.となると,コンテンポラリーアートがインターネットに参入・介入してくる流れは「非物質性」という点では既定路線だったと考えることができる.
Julian Stallabrassはインターネットアートの「オブジェクト」と従来のアートのオブジェクトとは全く異なっていると指摘する.その理由は,劣化なきコピーが可能であるだけでなく,移送のコストがほとんどかからないということであった.これは「非物質性」と大きく関わってくるところである.ネットアートは「非物質性」ゆえに,劣化もせずにコピーが可能であり,それゆえに伝送コストもほとんどかからない.これらの性格ゆえに,ネットアートは物質的基盤をもつコンテンポラリーアートの美的性質とは異なるところにあった.しかし,コンテンポラリーアートもまた「非物質性」を帯びるようになり,これらの性質を利用するようになった.
多分にネット寄りの作家ではあるが,ネットアーティストとは言い難いアーティ・ヴィアーカントのエッセイ「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト(The Image Object Post-Internet)」が示すように.インターネットを少しでも意識している作家は物質的なオブジェクトとデジタルデータとをほぼ同じものとして扱うようになってきている.
作品を展示する側のギャラリーもこのネットの性質をうまく利用して,展示作品をJPEG画像でネット上に拡散していく.作品のJPEG画像のみの展覧会である'Send Me the JPEG' はこの状況を皮肉ったものであるが,英語圏のアートマーケットはアート作品自体が物質的なものから非物質的なものへと移行しつつあるなかで,オークションを開催するなどして,非物質的な作品に積極的に価値をつけていく方向に向かっている.それは,非物質的ゆえの劣化なきコピーとほぼコストゼロでの伝送というこれまでにない作品の性質をあらたな価値として提示するために,アートマーケットがインターネットというあたらしい伝送システムを「アートワールド」という物質的基盤に構築された既存のシステムに取り込もうとしているようにみえる.
英語圏のアートワールドが「インターネット」を「フリー[free]」というときに示されていたのが「無料」であったのに対して,IDPWによる「インターネットヤミ市」での「インターネット」という言葉が示しているものは「自由」である.インターネットの「自由さ」を感覚的に取り込んで,それを表現したものが「インターネットヤミ市」と言えるかもしれない.インターネットの「自由さ」は,もちろんその非物資性を帯びた性質にも由来するものであろう.「インターネットヤミ市」は非物資的な感覚を物質的な場に落とし込んだものである.そこでは「無料」ということよりも,「自由さ」が重要な価値をもつ.欧米のアートワールドがそれ自体の物質的基盤をひとつの価値として,その価値基準のなかでインターネットを「あたしいもの」として取り込んでいこうとしているのに対して,ヤミ市は価値がまだついていないものにその場限りでも価値をつける,いや,「価値」ということ自体を考えることがない「独自の場所」をつくったといえる.それは「ヤミ」という語が示す「ダークサイド=ブラック」及び「ビョーキ=フェティッシュ」という部分に結びついてくる.そして,まだ明確な理由はわからないのだが,これらのこれまでは「ネガティブ」に受け取られていた部分が「ポジティブ」な要素になっているところに,「インターネットヤミ市」の特異性があると考えている.
Julian Stallabrassはインターネットアートの「オブジェクト」と従来のアートのオブジェクトとは全く異なっていると指摘する.その理由は,劣化なきコピーが可能であるだけでなく,移送のコストがほとんどかからないということであった.これは「非物質性」と大きく関わってくるところである.ネットアートは「非物質性」ゆえに,劣化もせずにコピーが可能であり,それゆえに伝送コストもほとんどかからない.これらの性格ゆえに,ネットアートは物質的基盤をもつコンテンポラリーアートの美的性質とは異なるところにあった.しかし,コンテンポラリーアートもまた「非物質性」を帯びるようになり,これらの性質を利用するようになった.
英語圏のアートワールドが「インターネット」を「フリー[free]」というときに示されていたのが「無料」であったのに対して,IDPWによる「インターネットヤミ市」での「インターネット」という言葉が示しているものは「自由」である.インターネットの「自由さ」を感覚的に取り込んで,それを表現したものが「インターネットヤミ市」と言えるかもしれない.インターネットの「自由さ」は,もちろんその非物資性を帯びた性質にも由来するものであろう.「インターネットヤミ市」は非物資的な感覚を物質的な場に落とし込んだものである.そこでは「無料」ということよりも,「自由さ」が重要な価値をもつ.欧米のアートワールドがそれ自体の物質的基盤をひとつの価値として,その価値基準のなかでインターネットを「あたしいもの」として取り込んでいこうとしているのに対して,ヤミ市は価値がまだついていないものにその場限りでも価値をつける,いや,「価値」ということ自体を考えることがない「独自の場所」をつくったといえる.それは「ヤミ」という語が示す「ダークサイド=ブラック」及び「ビョーキ=フェティッシュ」という部分に結びついてくる.そして,まだ明確な理由はわからないのだが,これらのこれまでは「ネガティブ」に受け取られていた部分が「ポジティブ」な要素になっているところに,「インターネットヤミ市」の特異性があると考えている.