IAMASの卒展に行ってみた

IAMASの卒展を見ていて,自分が求めているのが,「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」なのではないかと思った.一目見て,ちょっと触っただけて有無を言わさずわかってしまうようなもの.例えば,須木康之さんの〈エスパードミノ〉は「徹底的にわかりやすい」と思う.けど,「ユビキタス」などの言葉で作者自身がしっかりと説明できるように,「わからない」部分がないような気がする.「わからなさ」なんてものは必要ないのかもしれないが,私が求めていたのは,わかって気持ちいいのだけれど,後から考えてみると,わからないところがある.でも,体験しているときは,そんなの関係なく,わかってしまうというなモノなんだと思う.

エスパードミノ
「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」.それは,ただそこにあるものなんだと思う.それが何かを考えることもない.ただそこにあるもの.メディアとは何かと問いを立てるのではなく,ただそこにあるものとして接してしまうような態度.ヒトが作ったものだけれど,自然なものになっているもの.

卒展の帰り,何となく「↑」の写真を撮っていた.とても久しぶりのことだった.卒展では味わえなかった「わからないこと」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」がそこに示されているような感じがしたからだと思う.


このブログの人気の投稿

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

画面分割と認知に関するメモ

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(3)

メモ:「貧しい画像」はもうない

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

ポスト・インターネットのなかに「幸村真佐男」を置いてみる

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか.

京都芸術センターで開催されている展覧会「影の残影」のレビューを書きました🌘

矢印についての寄せ集めメモ