メモ:カーソルはメタファーではない

すべてが見えている新しい表面の中で,消えてはじめてその存在に気付くように,よく見えていないカーソル.

カーソル自体がイメージでありながら,他のイメージをブリコラージュするカーソル.

イメージもなく,シンボルでもない新しい記号様態をしめしているようで,身体とも強く関係を持つ点でそれとも異なるカーソル.

カーソルは「身体的|視覚的|記号的」という3つの精神が統合されている存在なのではないだろうか?

カーソルは映像でもあり,データでもあり,身体でもあり,モノでもあるような「よくわからない」存在なのではないか?

私たちは「よくわからない」ままカーソルを受け入れたている.つまり,カーソルは私たちの血肉となっている.だから,その存在に何も疑問を抱かない.しかし,そこにはどこか「よくわからない」部分があるはずである.

カーソルとは,モノと情報とを組み合わせて,よくよく考えると今までの枠組では捉えることができない「よくわからない」経験を作り出す存在なのである.

カーソルの「よくわからなさ」は,それが私たちが慣れ親しんだ世界からコンピュータの世界に持ち込んだ「メタファー」ではないからである.カーソルは,ヒトとコンピュータとのあいだのコミュニケーションで,まさにリテラル(文字通り)にただ「カーソル」として存在している.

私たちヒトが「身体的|視覚的|記号的」の3つの精神を統合して,何かのメタファーでなくただリテラルに世界に存在しているように,カーソルも3つの精神を統合したかたちで,コンピュータから何の理由もなく生じたリテラルな存在だと考えられる.

90年代のメディアアートはメタファーに満ちていたとすれば,2000年代以降のメディアアートはリテラルになっているのではないだろうか.

90年代のユーザ・インターフェイスがデスクトップ・メタファーからの脱却を試みていたように,メディアアートもリテラルになろうとしたと考えられるからである.

メタファーからの脱却は,私たちがコンピュータを血肉化していったプロセスと呼応している.エキソニモの《断末魔ウス》はこの血肉化を「マウス」と「カーソル」というコンピュータにとって,リテラルなモノとイメージを使って抽出した表現なのである.

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