インタラクティヴィティとメタファーに関するメモ

入力と出力の関係を論理的に記述できるこのプログラム可能性は,コンピュータというデジタルテクノロジーのもうひとつの大きな特徴である.しかしその入力とは多くの場合,マウスをはじめとするユーザの身ぶりを伴う何らかの所作であり,これがインタラクティヴィティを引き起こすのである.このようにインタラクティヴィティとは,それを生み出すプログラムは非常に論理的なものであるにもかかわらず,体験する側からみれば感覚的で身体的なものであるということができるものなのである.(p. 47)
メディアアートの教科書,白井雅人・森公一・砥綿正之・泊博雅
今日はここからメディアアートにおけるインタラクティヴィティを考え始めて,下のように考えて,
論理と身体・感覚とのあいだのギャップを埋めるものとしてメタファーが機能してきた.メディアアートの中のメタファー,あるいはメタファーなきインターフェイスとしてのメディアアート.メタファーに満ちたデスクトップ環境を文字通りに受け取るようになったあとのメディアアート.
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リサーチしている最中に,ボワシエにとってのカーソルの役割みたいな記述があったので,下のようにつぶやいて,
マウスとカーソルとを作品に用いるが,ボワシエにとってはそれら自体が主題ではない.そこには物語がある.エキソニモの《断末魔ウス》は,マウスとカーソルとを主題にして,それらをリテラルに扱う.メディアアート/インタラクティヴィティにおけるボワシエとエキソニモとのあいだの断絶を考える.
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最後にメディアアートとパラレルな関係にあると考えているコンピュータのユーザ・インターフェイスにおけるデスクトップ・メタファーを考えた.
メディアアートとコンピュータのユーザ・インターフェイスはともに,メタファーを使ってヒトの身体をコンピュータの論理世界を入れ込んでいった.その際に,メディアアートは慣れ親しんだ身体をそのまま用いたのに対して,インターフェイスはマウスという新しい道具に対応した身体を用いた.
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メディアアートとコンピュータのユーザ・インターフェイスにおけるメタファーを考えるときに,アラン・ケイの「Doing with Images makes Symbols」が重要になってくるのではないか.

メディアアートといっても現在のではなく,ジェフリー・ショーの《レジブル・シティ》などは,慣れ親しんだ身体行為そのものをコンピュータの操作に持ち込んでいる.ケイのスローガンで言えば,「Doing」の部分にメタファーを持ち込んでいる.それゆえに,「インタラクティヴィティ」という言葉が全面に出てくると考えられる.

対して,マウスという新しい道具を用いたコンピュータのユーザ・インターフェイスでは,ディスプレイの中に構築された「デスクトップ・メタファー」が示すように「with Images」の部分にメタファーが持ち込まれた.しかも,そのメタファーはマウスという新しい道具を使う身体感覚に基づいているために従来にない平面の概念をつくり出したと考えられる.

どちらが優れているのかということではなく,メディアアートとコンピュータのユーザ・インターフェイスにおいてメタファーを軸にヒトとコンピュータとのあいだに新しいインタラクティヴな環境が,パラレルに形成されていったことは興味深い.

時間軸で考えると,コンピュータのユーザ・インターフェイスがにおける新しいインタラクティヴ環境である GUI が先にできあがり,1984年のマッキントッシュの発売で一般化していく.そのあと,1989年にジェフリー・ショーが《レジブル・シティ》を,1995年に藤幡正樹が《ビヨンド・ページズ》を発表していく.マウスに限定されたインタラクションではなく,もっと身体的なインタラクションを提示する.それはマウスによって閉じられたインタラクションの可能性を,再び押し広げようとしたものかもしれない.

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