藤幡さんについて突発的に考えたメモ

藤幡さんにとって身体とは何なのだろうか? 私たちの身体を作品に招き入れ,あっという間に記号化してしまう.霧散する身体.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931496567

記号へと霧散する身体なんて,そんなものは身体ではない.「コンピュータの身体性」もそこにはない.あるのはアルゴリズム.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931547526

アルゴリズムがあるが,その真偽を決めることができるのはコンピュータだけで,ヒトはそれを決められない状況に置かれる.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931625253

ヒトは身体を記号化され,記号の真偽も決めることができない状況に置かれる.新しい言語が必要となる.「新しい言語のために新しい身体が必要」などとは藤幡さんは考えていないだろう.私の勝手な考え.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931720701

藤幡さんは,新しいアルゴリズム,新しい言語を求めている(のだろう).
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931762958

でも,身体.すべてのメディアが帰属する場所としての身体.今までのメディア体験を担っているモノとしての身体.記号の全体論を担う身体.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931901077

藤幡さんは作品を体験しにくるヒトの身体を信頼しているのだろうか.きっと,信頼している.その信頼を元に,身体をあっという間に記号化する.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931994096

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

画面分割と認知に関するメモ

矢印の自立

アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(1)