ディスプレイと物理世界との重ね合わせと物理世界から外れたディスプレイ:「一枚の絵の力」の永田さんと山形さん

花房太一さんが展示アドバイザーとして関わっている「一枚の絵の力」に永田康祐さんと山形一生さんの作品を見に行った.永田さんと山形さんともにディスプレイを用いた作品をつくっていて,それを見ていて,考えたのは,永田さんはディスプレイの外にレイヤーをつくるというか,ディスプレイのなかだけで映像が完結しないというか,外に伸びていく感じがあるということ.これはこれまで「モノとディスプレイとの重なり」で書いていたことでもある.今回の新作はそれがきれいなかたちででていて,もはや具体的な像ではなく,単にグラデーションの光となった映像とその上の水のレイヤーとの重なりがきれいだった.光と水,水の色とグラデーションの光とが混ざりあって.ディスプレイの光に水の色の情報が重ね合わされていく感じ.






前回の個展よりもディスプレイとその前の空間に置かれたモノ=水+アクリル(?)の水槽とが密着している感じがあったことと,ディスプレイが映しているのがグラデーションの映像だからか,どこか前回の個展でエアキャップにくるまれて壁に立てかけられた作品を強く思い出した.映像が具体的なものではないということが強く影響しているのかもしれない.あと,ディスプレイの表示面すべてにモノが重なっているからかもしれない.表示面すべてが被われていることも相まって,モノの輪郭を明確に示すことがない映像は単にディスプレイが光っているようにも見える.けれど,それもまたひとつの情報のあらわれであって,ディスプレイから放射される光は色の情報を示しているという点では,それが具体的な何かを示していようがいまいが関係ない.ディスプレイは光を放ち,その光はモノを通過していき,ヒトの網膜にあたる.このとき,ディスプレイはひとつの面であり,モノも面であり,網膜も面である.どこがインターフェイスかということを考えていると,それぞれがインターフェイスであって,これら複数のインターフェイスが包み込んでいるモノやヒトが同時に存在している場のあり方を考えることが重要なのだろうなと思う.

山形さんの作品には,郷治竜之介さんとの二人展「optical camouflage」のときから気になっていた「ディスプレイの内側」ということが,今回のエイの作品にも感じられた.エイの作品はディスプレイの外側に水が少し入ったペットボトルが設置してあって,それがたまにディスプレイに水を注ぐような感じに動く.ペットボトルにはフタがしてあるので水はでないのだけれど,ディスプレイにはそのペットボトルから注がれたかのような水の放物線が描かれて,エイに水が注がれる.ディスプレイの外側からのちからが,ディスプレイ内の映像と連動しているといえるのだけれど,よくよく考えてみると,ペットボトルのフタは開いてないし,ディスプレイとペットボトルとのあいだには微妙にあいだがあって,ディスプレイ内の水はペットボトルとはつながらない.そこにはあいだがある.ここがとても重要な感じがしていて,それは,ディスプレイ内の水はペットボトルから注がれているようにみえるけど,それは単に見えるだけで,ディスプレイに表示されているだけでしかない.でも,「しかない」というものでもなくて,ディスプレイ内側の,ディスプレイのガラスの内側のピクセル平面から生まれる水の放物線であること.ディスプレイ内側の水の放物線とペットボトルとは関係がありそうでないけど,あるように見えるけど,やはりないとした方がスッキリするような感じがある.





このことが気になるのは,「optical camouflage」での山形さんの作品でディスプレイにCGで制作された鳥が激突するという作品があって,その鳥はどこに衝突しているのかということが気になっていたからである.水はどこから注がれているのか,ペットボトルのような気がするけれども,それは見る者が勝手に結びつけているだけである.実際は,鳥がどこにぶつかっているのかわからないように,水もどこから注がれているのかわからないのではないか.山形さんの作品には,ディスプレイ内だけで完結していながら,外のモノとつながるようにディスプレイが設置されるがゆえに,ディスプレイ内の映像の位置というか,その存在のあり方自体がわからなくなるような感じがある.そして,そう考えはじめるとディスプレイ内の映像は,実際はどんな場所・平面なのだろうかとなって,それはディスプレイという平面がどんな場所なのかを考えるきっかけにもなるような感じを受ける.

永田さんがディスプレイ内の映像を外と重ね合わして,ディスプレイとモノとヒトとが同時に存在して,「見る」ことが成立する場をつくっているとすると,山形さんはディスプレイの内と外を接続させているようにみせながら,ディスプレイを完結した平面として提示して,ディスプレイとその映像が物理世界から外れていって,どこにも帰属しないような状況をつくっている,というようなことを考えた.

これはきっと「絵画」がずっと考えてきていることなんだろう.だから,永田さんと山形さんの作品が「一枚の絵の力」に展示されているのだろう.絵画の問題がディスプレイの作品に適用されるとき,そのままのかたちで引き継ぐことはまずないから,絵画の問題を引き継ぎつつ,それがどのようにアップデートされるのかを考える必要があると,最後に思った.

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