メディアアート概論(2026年度水野担当分)の授業資料
女子美術大学の「メディアアート概論」で、今年度も5回の授業を担当しました。
昨年度は、谷口暁彦さんの《parallax》を最初と最後に見てもらって、その間に「視界・リンク・仮想空間」について考えるという構成にしました。今年度は、もう少し「見る」ということに絞って、5回の授業を組み立てました。
- 第1回 「見る」の主語は誰か——誰も立ったことがない視界
- 第2回 写真は何を止めるのか——新津保建秀の写真
- 第3回 「見る」を切り出し、外へ置く技術——スマートフォン、谷口暁彦《parallax》ほか
- 第4回 見るが生まれる前に見るもの
- 第5回 4つの視界がどう作用するか——作品をもう一度見る
第1回では、小林健太さんの「TOKYO 2025」シリーズを見てもらいました。奥行きがあるように見えるのに、その空間に自分が入っていけるようには感じられないのなぜなのだろうか。そして、この写真を「誰も立ったことがない視界」と呼ぶところから、授業を始めました。第2回は、新津保建秀さんの写真を通して、写真が時を止めるというとき、何が止まっているのかを考えました。第3回は、スマートフォンや《parallax》、エキソニモの「スクリーンショット」を通して、視界が切り出され、外へ置かれることを考えました。第4回は、村本剛毅さんの《Imagraph》と古澤龍さんの《Mid Tide #3》を取り上げ、「見る」が生まれる前の視界について考えました。
そのなかで、普段ひとつの言葉として使っている「視界」を、〈視界〉、[視界]、【視界】に分けて考えてみました。〈視界〉は、記憶や気分、身体の動きなどが関わりながら、その都度つくられる、わたしの見ている世界です。[視界]は、カメラやディスプレイによって切り出され、持ち運んだり、共有したりできる視界です。そして【視界】は、「見る」という行為がまだ確立していない、〈視界〉が組み立てられる前の状態の見るということです。これらを、視界を分類するための言葉として使うのではなく、一つの作品を見ているときに、それぞれがどう作用しているのかを考えるための道具として使いました。そうやって、授業を進めていくと、テクノロジーによって、これらの視界がより複雑に絡み合っている状況で、わたしたちの「見る」は生じていると強く感じました。
最終回には、それまでに見た作品のなかから一つを選んで、もう一度見てもらいました。最初に見たときと、5回の授業を経てから見たときとで、何が変わったのか。あるいは、変わらなかったのかということを、学生の皆さんに考えて、書いてもらいました。
学生のコメントを読むと、作品の見え方や、自分の言葉が変わったと感じた人もいれば、変わっていないと感じた人もいました。また、「見る」ことを考えたことで、かえってわからなくなったという声もありました。わかるようになることだけでなく、わからなさが変わっていくことも、この授業で考えたかったことだったと思います。
5回を通して、わたしが考えていた問いは、次のものでした。
わたしが見ているのか。それとも、「見る」という現象の一時的な位置に、わたしがいるのか。
これは初回の授業で引用している、保坂和志さんの『カンバセイション・ピース』を抜き書きしているときに考えたことです。授業を終えたいまも、この問いへの答えは出ていません。ただ、わたしたちが普段見ている視界は、単に見えているというだけで片付けるには、複雑すぎるものだと感じています。そして、メディアアートは、わたしたちと世界との複雑な関係を、複雑なまま、でも、なんかわかるという気持ちよさとともに表現できる領域なのではないかと考えています。
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