「\風景=風景」あるいは「システム=風景」
『\風景』では,ページをめくるごとに,意識がネットに行ったり,写真で撮られている「現実」にいったり,デスクトップ上のウィンドウに行ったりする.意識がフラフラする.この意識のフラフラが,最後にある「バックスラッシュ」の説明ですっきりする.「すっきりする」と言っても,写真を見ているときの意識がネットに行ったり,「現実」に行ったりする感じのすべてを理解できたわけではいのだけれど,「あぁ,そういうことか」と思う.池上高志さんが美術手帖に書いている「安定した解の存在しない関係式『\a = a』」によって,意識が落ち着く感じがある.今まで見ていたものが風景なのなか,デスクトップも風景なのか,そうしたことが「\風景」として無効化されて,その上でそれが「\風景=風景」となるという感じ.
ペトラのときに書いたことでいうと,写真集の写真の隣接性によって意味がわからないけれど,とても強烈な結びつきを感じていたものが,最後の一文によってまとめ上げられて,意味を持つ感じ.これは言いすぎかもしれない,池上さんの「\a = a」という式によってこそ,まとめ上げられるというべきかもしれない.まとめ上げられるといっても,隠喩的なものではなくて,「\風景=風景」という直結回路ができた感じ.メタファーを経由しないから,デスクトップ・メタファーで特権的に位置にある「カーソル」が写真に写っていなくてもいいのかなと思えるようになった.以前は,「カーソル」が写っていないことに違和感を感じたのだけれど,今の解釈だと感じない.
新津保さんはインタビュー(アサヒカメラ2012年5月:あたらしい「風景」をとらえるために,インタビュー 島貫泰介)で「ネットワーク内の膨大な情報は、第二の自然環境といえるのではないでしょうか。写真は見えるものしか撮ることができないけど、写真が持つ『フレーム』の意味を拡張することで現れる風景があるんです」と言っています.コンピュータのディスプレイに映っているもののスクリーン・ショットを撮ることで,「第二の自然環境」を撮影しているとすれば,ペトラの《System Landscape》で表示されている「風景」もそうなのではないか.Googleが提供して当たり前の「風景」になった航空・衛星写真という俯瞰の眺めや,GIFアニメーションというネット上のひとつのネイティブな動画表現=自然であったり,ウェブカメラからのスクリーン・ショットであったりする.ペトラは自分の前にディスプレイに展開される画像をそのまま「システム=風景」として並べている.そこには「第二の」という順番もなくて,ただただ「システム=風景」という意識なのかもしれません.そうするとここには「\風景=風景」という直結回路が成立しないのかもしれません.無効化する「風景」がそもそものなく,そこにあるのは「システム=風景」ということ.