ペトラ・コートライト《System Landspace》を考えみたけど…

ペトラ・コートライトSystem Landspace》2007.この作品は「ANIM8D GIF PIECES」のカテゴリーに置かれている.


作品を見に行くと,まずは波が寄せては返す風景が3重にくらいに重ねられたGIFアニメが出迎えてくれる.その下に「System Landscap」2007 と書かれている.このGIFアニメを見ると,低解像度の風景GIFアニメを次にも期待する.

クリックするとこんな感じになる.


ウィンドウが重なり,複数のウィンドウには航空写真から作られたGIFアニメがループしている.出だしから期待を裏切られる感じがする.タイトルの「System Landscape」という言葉を考えると,コンピュータの画面上にあるもの自体が「風景」と考えることもできるから,ウィンドウが重なっている画像が出てくることは納得できる.その中に俯瞰の航空写真というGoogle Earthが当たり前にしてしまった「風景」がGIFアニメで流れていることもひとつの「風景」だなと思う.

では,ウィンドウで黒くなっている部分は「風景」なのか? あるいは,あるべきものがなくなっていることも「風景」なのか? そんなことよりもGIFアニメがメインのはずなのに,その枠であるウィンドウがこれほどに重なっていることの方が問題なのではないか.「風景」よりもウィンドウが重要で,「風景」としてウィンドウのなかに映しだされているものには積極的な意味を見出させない,自分がいる.「結局,「枠」があるから風景なんだよね」とペトラに言われているような感じもするし,それは考え過ぎな感じもする.ということを考えつつ,クリックしていくと,上のウィンドウ重なりのGIFアニメが何回か,続くことになる.

クリックし続けて,このままで終われば「System Landscape」が意味するところは,割りと単純なのかもしれないな思っていると,いきなり,植物みたいなGIFアニメが現れる.

植物みたいなGIFアニメ.あくまで「みたいな」という感じ.ここではウィンドウはなくなっていて,代わりに,植物みたいなやつを囲う赤と青の枠がある.「植物みたいなGIFアニメ」とそれを囲う「青・赤の枠」,ここに意味を見いだせるのか.意味を考えてはいけないのかもしれない.ただただクリックして,画面を次へ次へと進めていくことだけが求められているのかもしれない.そう思って,どんどんクリックする.すると,植物みたいなやつが,次々に減っていく.かと思えば,今度は枠をもたない植物みたいなやつが現れて,2,4,8,16と増殖していく.

GIFアニメだから,勝手に再生がはじまる.見ている側に自由は与えられていない.クリックすれば画面は次に遷移して,次のGIFアニメが勝手に再生をはじめる.動画を止めようにも,クリックしたら,次のページに行ってしまい,勝手に動画の再生が始まり,クリックするまで,ループしている.

空撮の風景であれ,植物みたいなやつであれ,GIFアニメがループしつづけていることが「System Landscape」なのかと思うと,次は静止画が小さなウィンドウのなかに表示される.ウィンドウには「Disconnected」と書かれている.

で,これをクリックすると今度は同じような感じで風景画像が表示され,ウィンドウには「Connected」と表示されている.次は「Cloud Forest」.その次からは「Any Message/You are away/I'm back」を示すウィンドウとともに風景画像が延々と表示される.風景画像は空や海,街の夜景だったりするけれど,もうそこにほとんど興味はななくなっている.ウィンドウの文字にも興味はなくなり,興味は「次の変化はいつくるのか」しかない.たまにウィンドウのなかの風景がきれいだなと思っても,画像がとても小さいのでそれ以上の興味は抱かない.「もう見るのやめようかな」と思いながらも,半ば義務感でクリックしつづける.すると,突如「INDEX」という文字だけが現れる.それをクリックすると,最初の画面に戻る.GIFアニメがループするように,作品自体もループする.でも,もう一度見る気持ちにはなれなかったので,終了.

《System Landscape》を見ていると,考えることを拒絶されている感じがする.ところどころに考えためのフックが仕掛けられているように見えるのだけれど,「これぞ」という決定的な引っ掛かりがないというか,「これぞ」と思うと次の展開で「それはハズレ」と言われている感じ.「風景」が「ゼビウス」に似ているとか,そういったことを考えることは意味ないよ,と言われ続けている感じがする.また,ウィンドウという枠の存在は興味深いけれど,それもただ単にシステムの枠としてついているだけなのであって,そこは特に考えるべきところではないのかもしれない.ウィンドウがあろうがなかろうが,風景画像は風景である.そこにたまたまウィンドウがあるから,そこに特別な意味を見出そうとするのは勝手だが,そこにはただウィンドウと風景画像があるだけで,それらが一緒のなのはそれらがコンピュータ,しかもたまたまウィンドウシステムを持つOSで表示されているからにすぎないだけのように思えてきた.

考えた結果,「たまたま」それらがそこにあったということにしかならないのか? その「たまたま」に積極的な意味を見出そうとすると,結局また「たまたま」に戻ってしまう.だから,「たまたま」を「たまたま」のまま扱える考えが必要なのかもしれないと思いつつ,それがこの前読んだ,市川真人「文学2.0:余が言文一致の未来」にある「隣接性=換喩的な構造物」なのかなと.次は,隣接性=換喩的な構造物」から《System Landscape》を考えてみたい.

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