「隠喩から換喩へ」という流れから,ペトラ・コートライトの《System Landscape》を考えみたけれど…
前回,ペトラ・コートライトの《System Landscape》を考えた結果,「ウィンドウ」,俯瞰の風景写真,植物のようなGIFアニメ,ウェブカムからの静止画が「たまたまそこにある」といことに至ったわけです.そこに積極的な意味を見出すことは勝手だが,ペトラには「そこには意味なんてないんだよ」と言われている感じ.そして,最後にこの状況を考えるために,市川真人さんが思想地図βの第3号に書いていた「文学2.0:余が言文一致の未来」が有効なのではないかと書きました.
市川さんの論考はTwitterなどの言表をめぐるテクノロジーによる環境の変化によって,「今日の世界像は全体を局所に投影する隠喩的なそれを離れ,無数のリンク=隣接が連鎖するものへと移行しつつある」というものです.「隠喩から換喩へ」という流れが,ペトラの作品の位置づけ(これは極私的に私にとっての位置づけかもしれませんが…)に役立つのではないかと思ったわけです.
市川さんの論考は「文学」を対象にしているけれど,そこで換喩的な作品として扱われているのはマンガ『ONE PIECE』だったりと,画像の分野と密接に関わっていると思われます.Twitterをtumblrに適宜読み替えたりすると,市川さんの言説は「ポスト・インターネット」界隈の画像の理解を促してくれるのではないか,と私は考えています.と,説明し続けるよりも,とりあえず「文学2.0」と「ポスト・インターネット」をただ隣に並べてしまうことからはじめてしまおうという感じです.
ペトラの作品に戻ります.そして,その横にエキソニモが[インターネット アート これから]に大量に設置してた《祈》を置いてみます.《祈》については以前一度考察したことがありますのでそちらを参照していただけるとうれしいですが(→イメージを介して,モノが「祈る」),とても簡単に説明すると光学式マウスを2つ重ね合わせると,光が干渉しあって画面上のカーソルが動くというものです.で,どうして《System Landscape》の隣に《祈》を置いたのかというと,前者が「換喩的」な作品で,後者が「隠喩的」な作品なのではないかということです.
エキソニモの《祈》は,マウスとカーソルという「デスクトップ・メタファー」とともに私たちの生活のなかに入り込んできたインターフェイスをメインの要素として使っています.マウスは手で持って使うものであり,カーソルはマウスと連動して画面の画像を選択するものであるという認識があってはじめて《祈》という作品の意味が発生します.つまり,「デスクトップ・メタファー」が作品を認識する最下層に位置づけられているわけです.また,マウスがふたつ重なっている様子を,手をあわせているようだとして《祈》タイトルがつけられていることからも,この作品は「メタファー」で成立しています.
ペトラの《System Landscape》もまた,ブラウザ上で見るのだから,マウスとカーソルを使っていると言うことができます.でも,それは認識の大元にはなっていません.ただマウスとカーソルを使っているだけです.試しに,この作品をiPhoneで見ると,マウスとカーソルなしで作品を体験できます.つまり,《System Landscape》では「デスクトップ・メタファー」が失効しているのです.「メタファーの失効」は,ペトラらの世代にとっては当たり前のことかもしれません.コンピュータを使い始めたときからそれらはそこにあったものなのですから,それらは現実に存在するファイルや書類や机のメタファーとしてコンピュータに入り込んだものではなく,ただそこにもともとあるものなのです.
《System Landscape》が「デスクトップ・メタファー」の失効の後に成立しているとすれば,エキソニモの《祈》を「メタファー」から過剰な意味を読み込むような人,つまり私はどんなにがんばっても,ペトラの作品から意味を読み取ることができないことになります.画面上の画像はただ単に隣り合って存在しているだけなのかもしれないのです.ペトラの作品の「風景」という言葉に何かしらの象徴性を見出そうとしても,それは単に「システム」という単語の隣に置かれた「風景」という単語にすぎないかもしれないのです.
市川さんは次のようなテキストを書いています.
整合した文法を失いつつも(あるいは失っているからこそ),受信者への影響力の行使が可能になる言語.それもまた,言表が隠喩的な因果性を離れて換喩的な隣接=切断に出あう,その瞬間のことだ.これをペトラの作品分析に置き換えてみると,「デスクトップ・メタファー」を失っているからこそ,ウェブの世界であたらしい 「隠喩的な因果性を離れて換喩的な隣接=切断に出あう」作品が生まれてきていると言えます.そのひとつの例がペトラの《System Landscape》なのです.
それはまさに,私たちの現在そのもののことだ.
「詩的な言語」はつねに,意味の彼岸にこそある.隣接の時代・換喩の時代であり,意味が奪い去られそれゆえに意味が欲望される現代は,もっとも詩が生まれやすい/伝わりやすい時代でもあるのだ.(p.287)
市川さんはこのテキストの後に谷川俊太郎さんの「いるか」という作品を取り上げています.その作品の書き出しは「いるかいるか いないかいるか」とはじまります.言葉遊びのように感じますが,市川さんは次のように説明します.
それは,海豚が「いる」とか「いない」といった"意味内容”や"読み手が携えているいるだろう読み方”が無効となるルールの提示,ある種の革命の宣言だ.そこでは言葉は,決して静止しないものとして記される.(p.288)
ペトラの作品がここまでの宣言をしているかどうかは,わからないけれど,少なくとも私の読み方「コンピュータのディスプレイ上の画像は「デスクトップ・メタファー」から読み解ける」は無効となるルールは提示されていました.
市川さんはさらにこう書きます.
そのような言葉の運動を可能にするのが,「いるかいるか」という冒頭の一行であり,二つの語の「意味」ではなく「配置」であること,さらには「いるか」という語に含まれるそれぞれの文字の隣接関係(と,それが可能にする運動)であることをあらためて確認しよう.《System Landscape》の最初に配置されたGIFアニメにおける「ウィンドウ」と「風景」という「配置」が, 「隣接があらたな意味を生じさせる」状態を作り出すところまで言っているのははっきりしません.けれど,今までのネットアートやメディアアートとは違う何かあたらしいことが試されていることは感じられます.私の場合,それが読解不可能ということで感じられたのですが.その「あたらしさ」を考える上で,参考になるのが,ペトラ(1986年生まれ)とほぼ同世代の谷口暁彦さん(1983年生まれ)が,座談会「インターネット・リアリティとは何か?」での発言です.
主従関係やひとかたまりの有意義な語であることに抗い,隣接があらたな意味を生じさせること───それは私たちの今日に起きている出来事の似姿ではないか?(p.290)
谷口:初期のインターネットを使った作品は,やっぱりインターネットでできること,つまりコンセプチュアルにインターネットを読んで用いてきたと思うんですね.だけどいまは質感のレイヤーになっていて,絵画とか彫刻に近いような感じが……ここで絵画とか彫刻をひきあいに出していいのかわかんないんですけど,まあ近いようなことが起きてると思うんですね.たとえば,真っ白なキャンヴァスにとりあえず赤い絵具をまず,一筆目に置くじゃないですか.そしたら,その隣に何を置いたら気持ちいいかっていう,快感の度合いっていうか強度がある.それに応じて次の色を置いてくっていうふうな感じでコンポジションをするっていうのが,絵画とか彫刻の基本的な構成の単位になってると思うんですよね.(強調,引用者による)
ペトラの作品と市川さんを考えてきて,その隣にこの言葉置いたら面白なと思ったわけです.隣に何をおくのかを,気持ちよさの快感の度合いに応じて決めていく.谷口さんが言っているように,隣接関係から考えるということは,絵画や彫刻では昔から行われてきたことなのかもしれません.でも,「デスクトップ・メタファー」という隠喩的な力や,プロトコルというある一定の手順が大きな力をもっていたパソコン及びインターネットにおいては,それらの力から離れた「質感のレイヤー」がようやく生まれてきたと考えることができます.
ただ問題は,これもまた極私的な問題ですが,私はそれらの作品を考えることができるのかということにビクビクしています.それは私が「デスクトップ・メタファー」からコンピュータを考えてきたからでもありますし,「メタファー」が世界認識の基本だとも考えているからです.思想地図β3のアマゾンのレビューにフチコマさんという人が次のように書いています.
しかし,もはや古典と言っても良い言語学者ジョージ・レイコフの『レトリックと人生』でも言われている通り,人間の思考の背後にはメタファーが切り離せず作動しているとするならば,こうした断片的なものを繋ぎ合わせていくというのは本質的に人間の能力の限界を超えるのではないだろうかとも思う.そのような中で,思考をし生きていくことが出来るのだろうか.
私も同じような思いです.でも,市川さんも書かれているように,「隠喩」と「換喩」は二者択一ではないので,自分のなかでうまくこのふたつの重ね合わせかたを調整していくことが求められているのだと思います.エキソニモの《祈》にさらに隠喩的な意味を付け加えるならば,この作品は「隠喩と換喩との共存」を祈っているのかもしれません.
また,もし「換喩的」なものが,ヒトの能力の限界を超えているのだとすれば,それはそれでとてもワクワクすることです.インターネットという今ではもうあたらしいとは見なされないけれど,実はヒトに能力を超えた無理矢理の「進化」を促すような本質的な「あたらしさ」を備えた技術と,これから生きていくと思うと,それはとても面白いことです.
ここまで書いてきても,ペトラ・コートライトの《System Landscape》のことは理解できていないと思います.ですが,これを書く前よりは,作品の位置づけは考えることができたかなと思います.それは個別の作品ということだけはなくて,「ポスト・インターネット」という言葉が示す状況も以前より明確になったと考えています.