「ない」けど「ある」を納得できる感覚を示すメタ情報

ビデオゲームが触れるメディアの最有力の領域になっている要因が,光の画面に密接に寄り添うと同時に,私たちの手にフィットするように工夫されたプラスチック製のコントローラの存在である.私たちの手元にあるコントローラは,画面上のキャラクターと一体化するためのものである.私たちとキャラクターが一体化している際に,コントローラの存在は忘れられる.忘れられることが一番大切なのだ.その際に,プラスチックの認識不可能性が大きな役割を果たす.触れているものは認識できないが,目の前の映像は理解できる.その時に,コントローラを触れているという触感は,映像へと投射される.この投射が,映像に触れているような感覚をもたらす.私たちは,映像を見ることで,今自分が何に触れているのかを認識するのであって,手元のコントローラからではない.手にフィットしたコントローラはその存在がなくなる.映像と結びついたプラスチックは,物質という認識から離れ,映像との関わりの中ではじめて認識されるものなのだ.つまり,コントローラを含めビデオゲームを構成するプラスチックは自らが認識されることを,映像に委ねているのである.
光に触れるためには,物質に触れなくてはならない.しかも,それは光に触れるという未知の体験に適応した物質でなけば,拒否反応が起こってしまう.そこに,私たちの物質への認識を一度リセットしたプラスチックという「変質した実質」が差し出される.プラスチックは,私たちの体内に拒否反応なしに入り込んだように,成型の自在さを駆使して,光の世界に入り込んでいく.プラスチックの薄い膜が,私たちを手で直接魚や肉を触れたときのヌメッとした感じから遠ざけてくれるように,私たちの物質の認識を一度リセットするプラスチックは,光の明滅が作り出す映像から生じる物質がそこにそのままあるような「生ぽっさ」と,それが光で形成されてるがゆえの「物質感のなさ」というふたつの状態から程よく距離をとってくれる.プラスチックという認識不可能性を示す物質は,光の明滅と仮現運動が作り出す「動き」と一体化して,自らの認識の可能性を映像に委ねる.映像に自らの認識を委ねたプラスチック製のコントローラは,映像との心地よい一体感の中で,「ない」けど「ある」を納得できる感覚を示すメタ情報を,私たちに与えてくれる.

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