山口に行くための考えごと
YCAM に展示されているエキソニモの《EyeWalker》を体験したい.山口は遠いなと思っていたのですが,CBCNETでの紹介記事を読んだらとても体験したくなった.そこには作品の背景として「自分のいる世界、モニタの中の世界、移動する事、移動しない事、フィクション、ノンフィクション」ということが書かれていた.さらに,栗田さんの言葉で「見る」と「選択」のあいだの行き来,その中間地点にある違和感というとても興味深い言葉書かれている.
この記事を読んで,まだ体験していないこの作品はエキソニモがICCで展示した《↑》に通じるものがあるのではないかと思い始めた.《↑》は現実世界にモノとして置かれた「カーソル」がカメラで撮られ,ディスプレイに映しだされる.ディスプレイ上にカーソルがあるのだけれど,それは「こちら」側に置かれたモノの映像であって,いつものコンピュータが生成しているカーソルとは異なっている.私はこの作品を体験した時,カーソルという「こちら」側にあるのか,「あちら」側にあるのかよく分からない,その中間地点にあるようなイメージを起点にして,強制的に現実と仮想とのあいだを行き来させられる感覚を覚えた.それはとても否応なく意識を持って行かれる感じだった.《EyeWalker》もこのような拒否できない強い流れみたいなものを感じることができるのんではないか.
カーソルはこの先の未来にもあり続けるだろうか.カーソルは iPhone には存在しないようにもしかたしたら,マウスとともに消えていくかもしれない.しかし,EyeWriter のような視線誘導のデバイスが普及するとしたら,そこでは,私たちが見ているところを示すものとして「↑」のかたちをしたカーソルが普通に使われている可能性が高いのではないかと思っている.なぜなら,カーソルは私たちの意識な関係を築いていると思われるからである.
現在のマウスと結びついたカーソルでも,私たちは極々普通にカーソルに自分に意識を持っていかれているときがある.それは,カーソルがひとつの依代になって自分の意識がコンピュータが作る情報の流れに取り込まれてしまうような感じである.ヒトが操作主体となってカーソルを動かしているのではなく,カーソルがヒトを動かすことが起こる.ヒトが長い年月を掛けてその制御の訓練をしてきた手と眼との組みわせでもこのようなことが起こるならば,「視線」というヒトが未だよく制御できないものを使ったデバイスのときは,自分がカーソルを動かしているのか,カーソルが自分が動かしているのかという区別はつかなくなるのではないだろうか.そんな不思議な体験を紐解くヒントが,ちょっと先の未来まで待たなくても,エキソニモの《EyeWalker》にあるのではないかと想像している.
山口に行こう.