三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(1)_エキソニモ「ゴットは、存在する。」と対比させたい

紀要論文を書きながら,次のビッグイベントである三輪眞弘さんのトークのために三輪さんの本を読んでいる.読んだ部分ではないのだけれど,三輪さんの音楽は神への奉納と言っている部分が気になる.なぜ気になるのかは,エキソニモの「ゴットは、存在する。」と対比させてみると面白いかなと思っているから.

三輪さんの「神」は奉納する「先」にいるわけで,それは見えないものであり,且つ,見えないものとなっている.身体的修練を積んだ演者による演奏によって,演者自体とそれを見ている人も「神」の存在を感じるようなものでしょうか.そこまで行かなくても「奉納」という言葉から,「神」に差し出すという雰囲気がある.

対して,エキソニモの「ゴットは、存在する。」はどうか.もともと「神」は存在しない.それは「ゴット」から連想される存在でしかない.連想するのは自分であるから,「神」は自分のなかに生じる.自分のなかに勝手に「神」が生じてしまう.そこには身体的修練は何もいらない.そういった意味では誰でも使える「マウス」的なものを感じる.となると,ダグラス・エンゲルバート的な意味で,三輪さんのは「五本指キーボード」かな.



[エンゲルバートの「共進化」はコンピュータとともにある身体を考える上で重要と考えている.「マウス」と「五本指キーボード」,この2つデバイスで「マウス」が生き残った意味もまた今回のトークで問題にしたいと思っているけれど…]

「ゴットは、存在する。」の連作のなかでTwitterを使った《噂》なんかは,「神」にまつわる語が「ゴット」に変換されるわけですが,そこにも「神」を感じてしまう.「ゴット」と変換され,「神」がTLからいなくなるわけですが,その不在が,不在というのはちょっとちがうか,「ゴット」がそこにあるのだから.なんだろう「ゴット」という神ではないけれど,神のようなものがそこにあって,しかもそれは,「神→ゴット」というアルゴリズムがわかれば,自分で「神」を含んだツイートをすることで,そのTLに参加できてしまう.

エキソニモにおける「神」というか「ゴット」の位置づけを考えていると,それはなんとなく「手元」にある気がする.奉納されるものではなくて,手元にある「ゴット」.作品を見ているときに「神」を感じるという意味は三輪さんの音楽と同じかもしれないけど,この「神」の手元感みたいな感じはもう少し突き詰めて考えると三輪さんが行っていることを相対化できるかもしれない.そのまえに三輪さんについてもっと知らないといけないのだけれど,三輪さんを経由したエキソニモへの理解が自分のなかで進んでくれるといいなと思う.

エキソニモに感じる「手元」感というのが,三輪さんが考えているテクノロジーへの感覚との違いを示しているような気がする.「手元」というとハイデガーの道具性とかでてくるかもしれないけれど,それとも違う感じがする.コンピュータが手元にあること.それはいつも触れているものなんだけれど,手元で起こっていることは何もわからないのに,手元にあり続けているもの.それを使うこと.使っているのだろうか.使われているのだろうか.奉納以前に,手元にあること.

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