三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(2)_「痛み」を緩衝するインターフェイス


三輪さんのテキストを読んで,作品解説の映像を見ていると,だんだん良くわからなくなってきた.三輪さんの「逆シミュレーション音楽」は「テクノロジー」と「身体」との関係で,特に「身体」が全面に出てくる.これはよくわかる.でも,その身体を模した機械である「Thinking Machine」になると身体が消えてしまう.「コンピュータを模した身体を模した機械」となるから,身体が消えて,コンピュータと機械とが直結している.「身体」を経由する意味があるのだろうかと否定的に考えていたが,逆に言えば,コンピュータが示しているのが「論理的な宇宙」だとすると,それをヒトの身体が表そうと機械が表そうとそこにはちがいはないということになって,機械がやったら身体がきえるし,身体がやったら機械が消えるということだけかもしれない.いや,身体と機械とで区別をつけている時点でダメなのかもしれない.

論理を模した人間,指は2本あればいい的なキットラー的な考えもいいけれど,コンピュータが今のかたちで普及したことも考える必要がある.アルゴリズムそのものに直結した考えができるヒトがとても少ないこと.カーソルとマウスでひとつの点を選びなら作業することで,コンピュータを使っているヒトが多いこと.いずれはもっとアルゴリズム中心になっていくのかもしれなくて,その過渡期にあるのかもしれないけれど,それでも今はまだカーソルとマウスだし,マルチタッチの段階である.カーソルとマウスにおいてはエキソニモの作品《断末魔ウス》が「痛み」を感じさせてくれた(→あたらしい「痛み」をつくる).このときの「痛み」はどこからくるのか.ヒトとコンピュータとを結びつけている「ハーネス」が切られることから来るのだろうか.ヒトでもなく,コンピュータでもない中途半端な存在としてのマウスを壊すことから生じる「痛み」.単純にモノを壊すことから生じているのか,カーソルと結びつくことで生じるあたらしい「痛み」.

これは私たちが普段からマウス⇔カーソルと意識しているからこそ成り立つ作品→「マウス⇔カーソル」という「意識の流れ」を破壊することで,あたらしい「痛み」を作り出している? 
「情報の流れ」の中にヒトが入り込んでいる.だから,ヒトの行為がカーソルの位置情報という「ログ」として残される.「情報の流れ」を破壊することで,あたらしい「痛み」を作り出している.→生物としてのヒト単体の痛みではなく,ヒトとコンピュータとの複合体がつくる情報の流れの中での「痛み」.  
あたらしい「痛み」をつくる 

この「痛み」の出処と三輪さんが書く「人間の感覚や尺度から離れた「神なき」漆黒の宇宙空間に直接晒され続ける「痛み」のようなもの」とはつながりがあるのであろうか.インターフェイスは「痛み」を宿す場なのかもしれない.いや,痛みを緩衝している場所.「インターフェイス=緩衝地帯」という考え.

三輪さんの作品には「インターフェイスがない」ということも思った.それはインタラクティブ性がないということではなくて,ヒトとコンピュータとがまさに直結してしまっているという意味で.ヒトが素のままで論理的宇宙に投げだされている感じがする.眼の前で起こっていることをほとんど理解できないという「痛み」がそこにあるような気がする.「インターフェイスなし」の直接性を緩和するための「命名」行為なのかもしれない.「という夢を見た」ということでつくられる物語的なインターフェイス.論理的宇宙とのあいだに置かれる緩衝地帯としての夢.論理と夢を対置させて,そのなかでヒトに感じてもらい,考えてもらう.

「〜もらう」と書いて思ったのだが,三輪さんの作品には「距離感」があるような気がする.エキソニモの作品が持つような暴力的というか,強制的に感じさせ考えさせるようなものがない(これは私の個人的な部分が大きいのかもしれない).エキソニモの作品は「インターフェイス」を破壊してヒトとコンピュータとの緩衝地帯をなくして,ヒトが普段触れ合っているものが自分とは異なる「何か」であることを顕現させる.三輪さんの作品はヒトとコンピュータとのインターフェイスを用いることなく,そこには「音楽」と論理があり,物語だけがある.ヒトとコンピュータとのあいだにあるインターフェイスなしで,ヒトとコンピュータとをつなぐ試みといえるのであろうか.どちらも目指しているところは近いところ(三輪さんの言葉でいえば「コンピュータ語族」の表現)にあるのかもしれないけれど,その方法が異なっているような感じ.

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