タイトルに「画像」と書かれているのに「文字列」しかない
谷口暁彦の《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》には,タイトルに「画像」と書かれているのに「文字列」しかない.立派な額のなかに小さな字でびっちりと書かれた文字列がある.この作品を見る人は,もちろんそこに文字列を見るのだが,同時に「画像」を見る人もいるのではないだろうか.この文字列が画像を表示させるためのものであることを知っている人は,文字から「再生」される画像のことを想像するはずである.それがどんな画像であるかはタイトルにある「無修正◯ロ画像」が影響すると思われる.また,文字列が画像を「再生」させると知らない人もそのタイトルと立派に額装された文字から,なにかしらの「絵画」を想像する人がいるであろう.文字列の機能を知っていようがいまいが,何かしらの「画像」を見る人の想像のなかに立ち上げる力を《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》は持っている.
この作品の興味深いところは想像のなかだけに画像が立ち上がるのではなく,文字列をバイナリエディタに実際に入力して「jpg」形式で保存すれば「画像」を見ることができるところにある.想像上の画像ではなく,実際にディスプレイに画像が表示される.「文字列=画像」というわけではなく「文字列→画像」ということで,文字列を適切に「再生」すれば,画像が表示される.私も画像を見ようと実際に購入した作品の文字列を入力しているが,まだ完璧に入力できていないどころか,最初の4行目で止まっている.
意味をもたない文字列を一字一句間違わずに入力するというのはとても骨の折れる作業である.なので,まだまだ入力は終わらない.なのに,額のなかの文字列は文字列でしかないのだが,それでも私はそこに画像を想像してしまう.もう「文字列=画像」となっているような感じもする.でも,文字列は文字列にすぎない.そこに画像を見るのは,その文字列が画像の「別の状態」であることを知っているということと,そこに思わせぶりなタイトルと立派な額があるからである.分けがわからない状態になっている.
仮にすべての文字列を間違えなく入力できて,そこから画像を「再生」できたとしよう.その画像は文字列に対してどのような存在なのだろうか.画像が文字列でもあることは,データの見え方を変えることができるコンピュータでは当たり前のことである.だが,それはコンピュータ上での話であって,《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》では文字列がプリントアウトされている.それゆえにコンピュータから離れてしまっている.この文字列はアプリを変えて立ち上げると画像になるとか,コピペしてできるとか,そんなことを一切受け付けない.それは額装された文字列としてただそこにある.横にコンピュータを置いても何も変わらない.そこにあるとされる画像を「再生」するには,そこにある文字列をコンピュータに打ち込むしかない.それであったら,もうこれはこれでひとつの《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》としてその文字列を楽しむべきものではないだろうか.いや,文字列を見ながら微かに想像される画像を楽しむべきなのではないだろうか.
谷口には《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》という作品がある.それは「壁掛け時計を12時間撮影,その映像に映る時計の時刻が,現在の時刻と同じになるように動画を再生する作品」である.モノとしての壁掛け時計と映像としての壁掛け時計がぴったり同期していると,どちらも「時刻を示す」という時計の機能を果たすことになる.この言い方はすこしおかしいかもしれない.モノとしての時計は常に「時刻を示す」を示しているのだから,モノとしての時計と同期することで,映像の時計だけが「時刻を示す」という機能を与えられたのだ.しかし,そうだろうか.ふたつの時計を見るとき,そのふたつが同じ時間を示しているからこそ,その時刻があっていると瞬時に分かるのではないだろうか.少しズレていたら,時刻を知ることにちょっとした遅延が生じる.2つの時計を見て,片方がモノで片方が映像,ということは,映像は過去の時計である可能性が高いから,モノの時計が今の時刻を指しているだろうとなるだろう.いや,モノとしての時計は電池が切れてかかっているのかもしれない,だとすると映像の時計の方があっているのではない,いやいやもう両方とも間違っている可能性が大きいから,自分の腕時計や携帯で時刻を確認するかもしれない.
《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》と《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》はどこか構造が似ている気がする.モノとしての時計と額装された文字列はともに,映像としての時計や文字列から想像もしくは「再生」されるであろう画像に対しての「別の状態」として機能している.文字列が映像の起源としての「オリジナル」というわけでなく,単に「別の状態」である.「映像は文字列でもある」という意味で「別の状態」である.映像の時計が「時計」ととして機能するのは,その横に「モノの時計は映像の時計でもある」となったモノの時計があるからである.「モノの時計は映像の時計でもある」というのはおかしいかもしれない.しかし,これら2つの時計は同期するという規則のもとでは同じ機能を示しており,この点で「モノの時計は映像の時計でもある」となる.もちろん「映像の時計はモノの時計でもある」ということも同時に成立している.「別の状態」という言葉で示したいのは,1つの状態ともうひとつの状態がある規則のもとで結びついているということであり,規則によって結びついていれば,その外見[画像−文字列]やメディア[モノ−映像]が異なっていてもそれらは単体となっているということである.画像であれ,文字列であれ,モノであれ,映像であれ,そのどれが唯一正しいということはなく,それらはある関係によって結びついた単体のそれぞれの状態なのである.
この作品の興味深いところは想像のなかだけに画像が立ち上がるのではなく,文字列をバイナリエディタに実際に入力して「jpg」形式で保存すれば「画像」を見ることができるところにある.想像上の画像ではなく,実際にディスプレイに画像が表示される.「文字列=画像」というわけではなく「文字列→画像」ということで,文字列を適切に「再生」すれば,画像が表示される.私も画像を見ようと実際に購入した作品の文字列を入力しているが,まだ完璧に入力できていないどころか,最初の4行目で止まっている.
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意味をもたない文字列を一字一句間違わずに入力するというのはとても骨の折れる作業である.なので,まだまだ入力は終わらない.なのに,額のなかの文字列は文字列でしかないのだが,それでも私はそこに画像を想像してしまう.もう「文字列=画像」となっているような感じもする.でも,文字列は文字列にすぎない.そこに画像を見るのは,その文字列が画像の「別の状態」であることを知っているということと,そこに思わせぶりなタイトルと立派な額があるからである.分けがわからない状態になっている.
仮にすべての文字列を間違えなく入力できて,そこから画像を「再生」できたとしよう.その画像は文字列に対してどのような存在なのだろうか.画像が文字列でもあることは,データの見え方を変えることができるコンピュータでは当たり前のことである.だが,それはコンピュータ上での話であって,《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》では文字列がプリントアウトされている.それゆえにコンピュータから離れてしまっている.この文字列はアプリを変えて立ち上げると画像になるとか,コピペしてできるとか,そんなことを一切受け付けない.それは額装された文字列としてただそこにある.横にコンピュータを置いても何も変わらない.そこにあるとされる画像を「再生」するには,そこにある文字列をコンピュータに打ち込むしかない.それであったら,もうこれはこれでひとつの《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》としてその文字列を楽しむべきものではないだろうか.いや,文字列を見ながら微かに想像される画像を楽しむべきなのではないだろうか.
谷口には《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》という作品がある.それは「壁掛け時計を12時間撮影,その映像に映る時計の時刻が,現在の時刻と同じになるように動画を再生する作品」である.モノとしての壁掛け時計と映像としての壁掛け時計がぴったり同期していると,どちらも「時刻を示す」という時計の機能を果たすことになる.この言い方はすこしおかしいかもしれない.モノとしての時計は常に「時刻を示す」を示しているのだから,モノとしての時計と同期することで,映像の時計だけが「時刻を示す」という機能を与えられたのだ.しかし,そうだろうか.ふたつの時計を見るとき,そのふたつが同じ時間を示しているからこそ,その時刻があっていると瞬時に分かるのではないだろうか.少しズレていたら,時刻を知ることにちょっとした遅延が生じる.2つの時計を見て,片方がモノで片方が映像,ということは,映像は過去の時計である可能性が高いから,モノの時計が今の時刻を指しているだろうとなるだろう.いや,モノとしての時計は電池が切れてかかっているのかもしれない,だとすると映像の時計の方があっているのではない,いやいやもう両方とも間違っている可能性が大きいから,自分の腕時計や携帯で時刻を確認するかもしれない.
《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》と《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》はどこか構造が似ている気がする.モノとしての時計と額装された文字列はともに,映像としての時計や文字列から想像もしくは「再生」されるであろう画像に対しての「別の状態」として機能している.文字列が映像の起源としての「オリジナル」というわけでなく,単に「別の状態」である.「映像は文字列でもある」という意味で「別の状態」である.映像の時計が「時計」ととして機能するのは,その横に「モノの時計は映像の時計でもある」となったモノの時計があるからである.「モノの時計は映像の時計でもある」というのはおかしいかもしれない.しかし,これら2つの時計は同期するという規則のもとでは同じ機能を示しており,この点で「モノの時計は映像の時計でもある」となる.もちろん「映像の時計はモノの時計でもある」ということも同時に成立している.「別の状態」という言葉で示したいのは,1つの状態ともうひとつの状態がある規則のもとで結びついているということであり,規則によって結びついていれば,その外見[画像−文字列]やメディア[モノ−映像]が異なっていてもそれらは単体となっているということである.画像であれ,文字列であれ,モノであれ,映像であれ,そのどれが唯一正しいということはなく,それらはある関係によって結びついた単体のそれぞれの状態なのである.