インターフェイスの消失と「より感覚的」な外界の認識(3)

電脳と2つの世界
私たちのなかの「ノイズ」というと,それは「意識」に対する「無意識」のことだと考える人がいるでしょう.「無意識」とは,精神分析家のジークムント・フロイトが発明(発見)した人間が自分ではコントロールできない意識の領域のことです.しかし,電脳と無意識とが異なるのは,電脳が脳の情報を操作可能にするBMIの究極の形であるところです.

BMI技術は,今までの脳科学がもっていなかった,脳内の情報表現に対する操作性を獲得するためのツールなのではないかと思うのです.この,脳科学最大の問題点であった操作不可能性を克服することが,僕のBMI研究の中で最大の感心事になってきました.今後のBMI研究は,その技術の工学的応用もさることながら,より深い脳機能の理解のためのツール開発と応用という目的で進めるつもりです.(pp.240-241) 
藤井直敬『つながる脳』新潮社,2009年

BMIによって,脳のなかの情報が操作可能になるという脳科学者の藤井直敬氏の指摘は興味深いです.それは今まで知ることができなかった脳をBMIによって操作することで,「科学的な知」の対象にしていくことになります.そして,電脳がBMIの究極のかたちだとすると,BMIによって知り得た脳の情報のすべてがそこには詰め込まれているといえます.だから,電脳は「脳」として機能できるのです.

しかし,「電脳」はどこまでもいっても人間ではなく,インターフェイスを介して操作してきたコンピュータです.では,「攻殻機動隊」の世界では,そのコンピュータを自分の脳として迎え入れることに抵抗はなかったのでしょうか.もちろん,抵抗はあったと考えられます.それでは,それはどうやって乗り越えられたのか.何が一番の障害となっていたのでしょうか.建築家のコスタス・テルジディスは人間とコンピュータとが結びつけるためにもっとも大きな障害は「人間中心主義」だとしています.「人間中心主義」とは,人間の考え方が一番ということです.例えば,コンピュータは「思考」を行なっているのではなく「計算」するものであり,それは人間の思考を補助するものだということです.この考えは私たちの多くが信じていることだといます.しかし,テルジディスは「人間中心主義」を取り払うとしたら,知的なサイボーグが生まれるだろうとしています.引用してみます.

しかしながら,仮に人間中心主義という前提を取り払い,人間の思考と全く同じではないものの,似たような働きをする知的な行為主体を導入した場合,「デザイン」という営為に対して,別種の解釈が可能になるのではないだろうか? このような可能性を考えてみれば,人間の思考は,本質的にコンピューテーションを備えた知的な存在によって拡張,補完,結合されることになる.それは,人間の存在とは独立した別の存在だ.以降,それを「他者性(otherness)」と呼ぶことにしたい(ギリシャ語では“allo”と呼ばれる).そのような存在を,人間の思考から切り離して考えられるのは,その存在の起源からして予想も想像もできず,不可解な性質を持つからである.言い換えれば,人間の思考が機能しなくなったところから,その存在が始まるのである.従って,その主体による知的な行動はすべて偶然や事故や偽りなどではなく,むしろ人間の理解を超えた複雑さを持つ別の論理(allo-logic)の産物なのである.このような“allo-reasoning(別の,異種の,論理的思考体系)”を手にすることは,人間の思考のサイボーグ化なのかもしれない.機械的,電気的に接続するという意味ではなく,知的に接続するという意味においてのサイボーグ化である.(pp.48-49) 
コスタス・テルジディス『アルゴリズミック・アーキテクチャ』田中浩也監訳,彰国社,2010年

どうでしたか.「思考のサイボーグ化」は,電脳を待つ必要はなくて,コンピュータと向かい合っている今の私たちの状況でもあるのです.なぜなら,それはコンピュータの「考え方」を受け入れて,今までとは異なる「思考のあり方」を探ることだからです.ここで,藤井氏とテルジディス氏との考えをまとめてみます.BMIでは脳を操作する可能性が開かれるけれど,それは脳にコンピュータを組み込む可能性もひらくことであり,最終的にはコンピュータという「allo」が人間のなかに入っていくなかで,人間中心主義が終わっていきます.これからの人間は「最初からすべては分からない」という無意識ではなく,電脳という「操作可能ではあるけれど,人間とは全く異なる論理を持ったもの」を,自分のなかに取り込もうとしているのです.

では,電脳が示す「全く異なる論理」とは何なのでしょうか.このテキストを読んでみてください.

前からときどき考えていることで,
まず,ファイル形式って結構メンド臭い.
自分が頭に思い浮かべたことを,画像形式にするか,テキストにするか,音声にするか,なんてコンピュータのファイルシステムの都合で選択しないといけないなんて本質的には違うよなって思ったりする.
特に,Webにアップするときなんかは,映像だったらYouTubeかな,写真だったらFlickrかな,テキストだったらBlogとかTwitterかな,なんて更にその先に接続されるWebサービスまでも分断してて,バラバラの場所に散らばってしまって管理しにくい.
そういう都合を考えずに,もっと感覚的にアイデアなり何なりを記憶/共有できたらいいのになーと漠然と思ってるわけです. 
千房けん輔「コンピュータ 記憶 シンクロ」http://www.cbc-net.com/blog/sembo/2012/02/13/コンピュータ-記憶-シンクロ/

これはエキソニモの千房氏が書いた「コンピュータ 記憶 シンクロ」と題されたブログ記事からの引用です.ここで指摘されているように,今のコンピュータでは.保存先をいちいち選ばないとネットにデータを上げられないし,コンピュータにも保存することもできない.私たちはデータに名前をつけて,保存先を選択して保存しています.しかし,それは電脳になっても,コンピュータの基本的構造が今のままであれば同じなのです.この一々選択しないと「保存」もできないというのが,脳と電脳とのちがいなのです.

この記録の仕方の違いは,電脳を「allo」として考えると当然のことかもしれません.ですが,電脳になると「もっと感覚的にアイデアなり何なりを記憶/共有できたらいいのに」が実現するのです.それは,人間がコンピュータを自らの内側に抱え込むことになるからです.ファイル形式など面倒臭いことを,電脳がやってくれるので,あたかも「感覚的」にすべてが行われるようになるわけです.データはどこかに,勝手に保存されて,いつでもどこでも自由に呼び出すことができるようになっています.ですが,そこでは今までは異なる論理で世界を認識しているのです.電脳を介して「現実世界」と「データで構成された世界」というふたつの世界が完全に同期しているのです.

電脳があたり前になった「攻殻機動隊」の世界におけるふたつの世界の完全な同期の例として,ひとつは清掃局の男の記憶が完全に書き換えられたことが挙げられます.現実世界とデータ世界とが完全に同期しているからこそ,データ世界を書き換えてしまえば,現実も変わってしまうのです.もうひとつの例としては,素子が清掃局にアクセスするところが挙げられます.アクセスを開始すると地図が映し出されて,その地図へと素子の体がダイブします.このときの映像のエフェクトは,素子がまさにその情報のなかに入り込む=同期するという感覚が示されています.そして,地図の操作がそのまま現実の車と連動しています.現実世界とデータの世界とが同期しているのです.

このように考えると,今の私たちは自分の体験・生活を自分というひとつの存在と「完全」に同期しているとはいえないのではないかという疑問がでてきます.それはなぜかと言うと,私たちは物事を「忘れる」からです.体験はあるが,その記録はない.「記録」ではなく「記憶」だと言う指摘を受けそうですが,このふたつの言葉のちがいが「同期」の密度を表していそうです.

実は,私たちの脳は0.5秒遅れて現実を認識していると考えられています.なので,脳もまたコンピュータと同じようにこの0.5秒のあいだに,勝手にデータに名前をつけて,保存先を選んでいるかもしれないのです.そこで名前をつけられなかったデータや,保存先を間違えたものもありそうです.そういったものは「忘れる」というタグがつけられていそうです.それもまた脳の仕事かもしれませんが.そうなると私たちは切れ目なく現実を体験して「記憶」していると思っていても,実は現在のコンピュータにおける「記録」のようにいちいち面倒な作業を行なっているのかもしれないのです.外の世界を切れ目なく感じているのではなく,途切れ途切れの「選択的な同期」によってリアリティが生じているとすると,電脳はこの選択的な同期のアーキテクチャとしては脳よりも遥かに速いスピードで処理することができるので「より感覚的」に外界を認識できるようなるのかもしれません.

人間はこれまでは脳と身体との二元論を乗り越えて,それらをいかに結びつけるかを考えてきました.そして,いつのまにか目の前にコンピュータという「電脳」が現れてきて,電脳と身体との結びつきをいかに効率的にするかを追求するようになりました.その結果として,人間の身体は「コンピュータの身体」を肩代わりするものになりました.その延長線上で脳もまた電脳となり,電脳という「allo」とそれが結びつくネットワーク上の膨大な情報の流れのなかに置かれた「あたらしい人間」が生まれたのかもしれません.それは,今まで「ノイズ」だと思われていたものに意味を見出し,「情報」として認識していくことなのかもしれません.「インターフェイスの消失」は,「ノイズの情報化」を促していくものなのです.

参考文献
「エキソニモが知っている」,『Web Designing』Vol.108,マイナビ,2010年
藤井直敬『つながる脳』新潮社,2009年
コスタス・テルジディス『アルゴリズミック・アーキテクチャ』田中浩也監訳,彰国社,2010年
千房けん輔「コンピュータ 記憶 シンクロ」http://www.cbc-net.com/blog/sembo/2012/02/13/コンピュータ-記憶-シンクロ/

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