インターフェイスの消失と「より感覚的」な外界の認識(1)
インターフェイスの消失
「攻殻機動隊」は近未来SFです.ですが,そこに私たちが今もっとも未来を見ているともいえる「スマートフォン」は一切でてきません.というか,「電話する」「メールする」「ツイートする」ということが描かれません.それは,それらの「インターフェイス」が電脳とそれに付随するBMIとして身体の内部に入り込んでしまったからです.それは,今の私たちの感覚からすると「インターフェイスの消失」と呼べることです.
「インターフェイスの消失」を考えるために,身近な例として,「カーソル」と「プッシュ通知」について考えてみましょう.コンピュータのインターフェイスを用いて多くの作品を制作しているアートユニット・エキソニモが「カーソル」について,次のように書いています.
カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているのだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77)
exonemo's view 「カーソル」「エキソニモが知っている」,『Web Designing』Vol.108,マイナビ,2010年
このように書かれると,普段気にもとめない「カーソル」がとても不思議な存在に見えてきませんか.裏を返せば,このように指摘されないと気づかないほどに,カーソルは私たちの感覚と同化してしまっているといえます.マウスとカーソルとでコンピュータを使うことに,今では多くの人が特に「操作する」という意識を持っていないと思います.それは,それらのインターフェイスを身体に取り込んでしまったともえいるのです.なので,カーソルが少しでも挙動不審な動きをすると,自分の身体もおかしな感覚になるのです.この感覚は,カーソルという身体の外側がノイズの発生源でありながら,それがダイレクトに身体につながり,内側からのノイズとして感じられるようなとても妙なものです.
そして,ここに出てきている「コンピュータの身体(性)」という言葉は大変興味深いものです.普段,コンピュータは「電脳」と呼ばれることからもわかるように,「身体」と切り離された別の存在だと思われているわけです.しかし,ここではその「コンピュータに身体」があるとされています.この言葉は人間とコンピュータとの関係を考える際の思考の向きを逆転させてくれます.例えば,「カーソル」は人間と結びつている「手」の代わりと思われているけれども,コンピュータの方から人間に伸ばされた「手(みたいなもの)」と考えると,そこに「コンピュータの身体性」があると言えるのです.コンピュータがその活動のために人間の身体を求めている、それがかたちとして現れたものが「コンピュータの身体」なのです.
では,スマートフォンにおける「プッシュ通知」はどうでしょうか.ひとつの通知が手元のスマートフォンにきて,私たちはそれを見て,次の行為を決めていきます.逆に「プッシュ通知」が「あれをやったら,これをやったら」と,私たちに告げて,次の行為を引き出していくと考えるとどうでしょうか.すると,「プッシュ通知」はネットワークと直結して,私たちの身体に作用する「神経経路」みたいなものになります.ネットワークやコンピュータは身体を持たないので,ディスプレイに「通知」を行い,それを見た人間がなにかしらの行為を行う.このように考えると「プッシュ通知」では,コンピュータがその「身体」を人間に丸投げしているような感じがしてきます.そうすると「コンピュータの身体=人間」になるわけです.ここでは今までコンピュータと接するときの障害のとなっていた人間の身体が,そっくりそのまま「コンピュータの身体」へと転換しています.この時点において身体的な「インターフェイスの消失」が起こっているのです.「プッシュ通知」でも,手元には「スマートフォン」というインターフェイスが残りますが,それは一枚の板に近いものであり,単なる「通知」という情報の流れが私たちの行為の流れを決めていくことは,コンピュータが人間の「内側」にスルスルと入り込んできているとこを意味しているのです.「コンピュータの身体」を私たちが肩代わりしていくことは,「インターフェイスの消失」につながっていきます.
コンピュータという身体を持たない存在が,身体を得ようとして,人間の身体を利用しているのが「インターフェイス」の歴史と考えることもできるのです.だから,インターフェイスが身体に直接作用するようになればなるほど,「インターフェイスの消失」が起こるのです.
「インターフェイスの消失」の例として,私の体験を書きます.視線入力インターフェイスにまつわることです.エキソニモが視線入力装置「EyeWriter」を用いた作品《The EyeWalker》を作りました.それは視線入力を利用して,眼の前のスクリーンに映しだされている「テレビ」やコンピュータなどの「ディスプレイ」を見つめることが「クリック」のような入力になるというものです.視線という普段は「インターフェイス」として用いていないものを「インターフェイス」に組み込んでしまうことで,普段私たちが行なっている「見る」という行為が突然「操作する」という行為とつながってしまうのです.そうすると何が起るかというと,「見る」ことが難しくなるのです.見ているけれども「操作」できないとか,逆に,見てしまうと操作してしまうから,見ることができないといったことが起こります.「見る」行為が壊れてしまう感じがするのです.それはマウスなどのインターフェイスがなくなる代わりに,「見る」こと自体がインターフェイス化して,「コンピュータの身体」の一部となるからです.そうすると,人間として世界を見ていると同時に,コンピュータとしても世界を見ることになるのです.だから,「見る」ことがとても難しくなってしまうのです.
このように考えてみると,BMIは脳という直接見ることが確認できない器官に直接作用する装置です.身体の内側にインターフェイスを組み込むと,どうなるのでしょうか.ここではインターフェイスは「自分の一部」になっているわけです.つまり,もう自分の外側にはインターフェイスと言えるものはないのです.例えば,今まではインターフェイスが壊れても,それはモノが壊れただけなので,自分は無事でした(場合によって怪我をするかもしれませんが).けれども,インターフェイスが身体の内側にある場合は,インターフェイスの故障,すなわち私たち人間の機能不全に直結するのです.まさに,「コンピュータの身体=人間」になっているのです.