《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

国立国際美術館に「世界制作の方法」を見に行った.エキソニモとクワクボリョウタというメディアアートの作家が現代美術の領域で紹介されるという展覧会で,タイトルはネルソン・グッドマンの哲学書(世界制作の方法 (ちくま学芸文庫) )からとられていてとても興味深い.

エキソニモの《ゴット・イズ・デット》がとても良かった.古びた扉を開けると「ギー」と軋んだ音がする.音とともに暗闇の部屋に入る.暗闇の中にスポットライトが光っている.ライトの先にあるのは……(この先はまだまだ会期があるので,是非自分の目で見てください).

暗闇が支配する空間にスポットライトひとつという空間構成が,この展覧会の他のどの展示よりも,自分の感覚にしっくりきた.この空間を作り出しているのが「エキソニモ」というネットで主に活動してきたユニットということがとても興味深い.現代美術ではインスタレーションというかたちで,多くの空間構成が行われてきた.「世界制作の方法」でも,多くの現代美術の作家がインスタレーションを行なって空間を作り上げている.しかし,それらにはなにか感じるところがなかった.「リアル」に溢れる乱雑さのみが表現されているという感じで,そこには今では「リアル」に寄り添う「もうひとつのリアル」となっているインターネットという存在への配慮というか気遣いといえるようなものがなかったような気がしている.

エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う.

だからかもしれないが,《ゴット・イズ・デット》には,いつ何が起こるか分からないという「不穏さ」を多分に感じる.インターネットはいつもそこにある「もうひとつのリアル」となっているけれど,その存在を改めて明確に示されると,ヒトはそこで何が起こるのかまだ予想できないのではないだろうか.そこは常に何かが起こりそうであり,常に何かが起こった後でもあるような感じがする,今までとは異なる世界.そのようなことは普段ネットに触れているときは,「便利さ」に隠れて感じることがなくなっているが,ヒトにとってネットは本質的に何が起こるかわからない「不穏」な存在なのではないだろうか,ということを《ゴット・イズ・デット》を体験しているとに感じた.

ヒトはリアルの乱雑さが示す「不穏さ」だけではなく,ネットという論理空間上に作られた乱雑さという「もうひとつの不穏さ」を体験し始めて,それを「リアル」に感じ始めている.だから,「世界制作の方法」というタイトルの展覧会に現代美術の作家だけではなく,ネットを含めコンピュータという新しい存在と向き合ってきたメディアアートの作家が参加していることに意義があると思う.世界は至る所でリメイクされている.

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

画面分割と認知に関するメモ

矢印の自立

アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました

京都工芸繊維大学_技術革新とデザイン_インターフェイスの歴史