あたらしい「痛み」をつくる

先日,VSN(Visual Studis Network)という自分もスタッフのひとりである研究会で発表しました.その研究会の主旨は名古屋大学大学院情報科学研究科の秋庭史典准教授が書かれたあたらしい美学をつくるを楽しむということでした→『あたらしい美学をつくる』の楽しみ方

発表者は著者である秋庭史典さん,美術批評で活躍されている粟田大輔さん,そして私という3人でした.粟田さんと私が,『あたらしい美学をつくる』を読んで考えたことを話し,それに対して秋庭さんに応答してもらうという感じで「楽しむ会」は進みました.粟田さんと私の発表に関して,秋庭さんが自身のブログでとても的確にまとめてくれています(そして,私の場合は自分でもうまく言えないところをズバリと表現されていてとてもためになります)のでそちらを見ていだければと思います.

以下は,そのとき使ったファイルからの転載です.だいぶ長いです.最後に「プロトコル」という項があるのですが,これは時間の都合上発表では省きましたが,ここには載せておきたいと思います.
───
情報の流れとしての自然
ひとつの例としての「台風」
幸いなことに,私たちはこうした考えに(直接的ではなくとも)力を貸し与えてくれるような知識論を手にしつつあります.それは,世界に対峙しそれを認識する主観という図式を廃し,「情報の流れとしての世界」という見方を提案しています.それがどんなものかイメージしてもらうために,いきなりですが,引用をひとつ挟みます.アメリカの哲学者ドレツキ(1932-)という人の名前が出てきますが,それが誰か知らなくても,「太平洋上の……」以下で著者戸田山和久(哲学者)が言おうとしていることは,理解されるのではないかと思います.

こうした世界のもとでは,この世に起こるさまざまな現象はすべて情報の担い手として見えてくる.しかもそれは,特定の解読者に解読してもらうことを必要としない.ドレツキは,情報の発信者,解読者という心をもった主体の存在を前提せず,出来事をじかに情報の担い手と考え,出来事の継起を情報の流れとして捉える.太平洋上のある場所で台風が発生したという出来事は,それじたいで,その場所の気圧が非常に低いという情報を担っている.このことはまったく客観的な現象だ.この情報はさまざまな他の出来事へと流れ込む.付近の島が逃げ出すという出来事に流れ込み,人々が漁船をしっかり結びつけるという出来事へと流れ込み,それからさらに,他の人々が非常食を点検するという出来事へと流れ込む.自然界ではこのように出来事から出来事へとたえず情報が流れている.(戸田山二〇〇二,八四-五)(pp.56-57)
あたらしい美学をつくる,秋庭史典

脳が広大無辺な広がりを持つと言えば,偏頭痛もまた脳の能力だ.偏頭痛はまだ医学的には全然解明されておらず,体調というよりもむしろ気象に起因するところが大きく,一般的には私の妻のように大気が暖気から冷気に入れ替わる,つまり,にわか雨や雷が鳴る日に,にわか雨や雷はだいたい午後三時から六時くらいに現象として起こるのにもかかわらず,そういう日はたいてい朝からひどい頭痛がしている.しかしもっと極端な例では,スマトラ沖の大地震のときに激しい頭痛がしていたという話もあるし,ある人は台風がフィリピンあたりにいるときに決まって激しい頭痛になるということも言っていた.
偏頭痛を知らない人や物事の原因を科学的に狭いところに見つけようとする人は信じないだろうが,これらの偏頭痛現象はすべて本当なのだ.脳は信じがたいことに,本当に広大無辺で,地球規模の広がりをもっている…….(p.190)

私も神秘的なこと超自然的なことは何も主張しようとは思っていない.動物たちが持っている本能を不思議な能力と,あらかじめ一般性の外に置いて───つまり,「例外」として───説明するのは科学とそれを基盤とするいまの社会の制度的言語であって,それらの本能が人間から失われてしまった理由は,クロソウスキーの引用部にあるとおり,「《われわれ》がそもそものはじめから諸制度によってその肉体の所有を剥奪されてしまって」いるからだ.(p.390)
小説の誕生,保坂和志

もうひとつの情報の流れのとしての自然

多くの芸術表現において,自然は外的な模倣・描写の対象でした.しかしコンピュータ内に生成される新たな自然は,人間の知覚認識や既成概念ではとらえきれない組織化を実現することで,メディア・アートに新たなヴィジョンを与えています.アーティストたちは,現在の科学技術や思想,政治,経済の動向と共振し,社会,都市,宇宙,そして自らを含む世界全体を,さまざまな情報の流れが相互に作用するプロセスとしてとらえはじめたのです.
はじめに,四方幸子

従来のアートにおいては,「自然」が題材にされる場合,事物や現象の外的特性の視覚的ミメーシス(模写・描写)となることがほとんどである.しかし「オープン・ネイチャー」でとりあげるアーティストは,コンピュータによって新たな拡張ないし生成を得た「自然」の,人間の知覚や予測を超えた自律的な組織化や領域創造の側面に注目することで,トランジションとしての科学,思想,政治,経済の再編成のありかたと共振しようとし,社会,都市,生態系を情報のプロセスとして,かつてない視点で創造的に連結・変換することを試みる.具体的には,これまでにありえないもの同士の接続を試みることで,人間の視覚中心の自然観を飛び越え,人間とそうでないものの境界を突き崩す試みがなされる(p.10)
オープン・ネイチャー,四方幸子
オープン・ネイチャー|情報としての自然が開くもの

観測や視覚化における任意性や限界を知った上で,私たちは現在,「汎測量学」を超えていく新たな測量学の地平に踏み込みつつあるように思う.それをここで「ミクロ測量学(Micrometry)」,と仮に呼んでみたい.ミクロ測量学においては,個人は俯瞰的な視点や統一的な目的をもたないまま,自らの興味や必要性に従って,ミクロで自律的なふるまいとしてデータを計測しフィードしつづける.それは,むしろ人間としての視点さえこえていくものとしてあるのかもしれない.(p.10)
「ミッションG:地球を知覚せよ!」展,四方幸子


「情報の流れとしての世界」という考え方はある.そこに「美」を見つけていこうとしているのが『あたらしい美学をつくる』

しかし,そこでヒトは「美」以外にも「痛み」を感じている.例:台風での偏頭痛

そして,ヒトとコンピュータとが作り出した文字通りの「情報の流れとしての世界」もある.

1991年8月6日,世界最初のウェブサイト(http://info.cern.ch/)が設立されました.それからちょうど20年が経とうとする現在,インターネットはわたしたちにとって,ごくあたりまえの存在となっています.誰かとコミュニケーションをとったり,調べものをしたり,自分の創作物を発表したり,さらにそれを批評しあったり……そこには,ネットならではの作法やリアリティが存在しているように感じられます.

出演:エキソニモ,思い出横丁情報科学アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也),栗田洋介(CBCNET),畠中実(ICC)


そこで,ヒトとコンピュータが作り出した「情報の流れとしての世界」における「リアリティ」として「痛み」を見つけていこうと考える.

「情報の流れとしての世界」に向きあう態度の変化 

測定:測量→リアリティあたらしい「痛み」をつくる
───
脱ヒト中心主義

カント風の道具立てを離れようとするとき,なぜライプニッツ的な考え方がよりふさわしく見えるのか.その理由はいくつかあります.まず,人間を特別扱いしないこと,そして,「自然の真のアトム」であるモナドとその相互作用から宇宙のすべてを説明すること.さらに,世界の全事物を計算可能であると考えたこと.(pp.72-73)
あたらしい美学をつくる,秋庭史典

allo
しかしながら,仮に人間中心主義という前提を取り払い,人間の思考と全く同じではないものの,似たような働きをする知的な行為主体を導入した場合,「デザイン」という営為に対して,別種の解釈が可能になるのではないだろうか? このような可能性を考えてみれば,人間の思考は,本質的にコンピューテーションを備えた知的な存在によって拡張,補完,結合されることになる.それは,人間の存在とは独立した別の存在だ.以降,それを「他者性(otherness)」と呼ぶことにしたい(ギリシャ語では“allo”と呼ばれる).そのような存在を,人間の思考から切り離して考えられるのは,その存在の起源からして予想も想像もできず,不可解な性質を持つからである.言い換えれば,人間の思考が機能しなくなったところから,その存在が始まるのである.従って,その主体による知的な行動はすべて偶然や事故や偽りなどではなく,むしろ人間の理解を超えた複雑さを持つ別の論理(allo-logic)の産物なのである.このような“allo-reasoning(別の,異種の,論理的思考体系)”を手にすることは,人間の思考のサイボーグ化なのかもしれない.機械的,電気的に接続するという意味ではなく,知的に接続するという意味においてのサイボーグ化である.(pp.48-49)

必ずしも発明である必要はない.数学や幾何学と同様に,コンピューテーションは,「発明」というよりむしろ「発見」なのである.コンピューテーション・プロセスが起動するために,必ずしも人間がいる必要はない.別の言い方をすれば,コンピューテーションは独立した性質を持ち,コンピュータや人間の脳をはじめいろいろな装置(ハードウェア)の上で実装,実行できる.「他者性」とは,コンピューテーションの一部分であり,人間からすれば,考えも及ばず,不可解で,予想できない,信じられないこととしてとらえられる.文字通りの「他者(他人)」なのではなく,「未知の領域」という含意がある.理解を上まわる超越的なものが,しかし存在可能でもあることから,「他者性」と定義するのである.ともかく「何か他のもの(something else)」とでもいうべきだろうか.人間の思考は,過去の出来事を結びつけて未来の存在の可能性を予測するものだが,「他者性」は,忘れられ,見過ごされ,不可能と思われ,除外されてしまった可能性に関わる.(p.49)
アルゴリズミック・アーキテクチャ,コスタス・テルジディス
田中浩也監訳

コンピュータという「allo」の出現で,ヒトは特別な存在ではなくなった.
そして,
コンピュータは世界の全事物を計算可能なものにしていっている.
───
ハーネスの思想

一般に,ハーネスということばは,馬の遮眼帯などのように,自然の力をうまく利用して(当の自然に苦痛を与えることなく),人間に有用な流れに自然を導く,という意味があります.(羊の群れを追い込む羊飼いになぞらえて「シェパーディング」,あるいは流れを導くという意味で「ガイダンス」という言葉を使うこともあります.)それは,最小限の人為(人工物,たとえば遮眼帯)の投入により,自然のシステムを動かし,動き始めた自然のシステムが今度は人工物を含めた自然の全体を動かしていくことを目指したものなのです.(p.155)
あたらしい美学をつくる,秋庭史典

鳥の発声器官である鳴管の構造を物理モデリングしたソフトウェアが,無数の鳥の鳴き声・鳴き方をシミュレーションにより生成出力し続ける(=Call).それに対し,自然界の鳥から応答(=Response)が検出された場合,ソフトウェア自身が学習プロセスを実行し,鳴き方を徐々に洗練・変化させていく.このプロセスを反復していくことにより,コンピュータと鳥の双方が影響を与えあい,人間の言語を超えた新しいコミュニケーション様式が発生するきっかけを作ろうとする試み.
自然模倣ではない,その先を構想すること.しかも,自然が技術に模倣しつくされたあげく両者の境界が消失するなどというありえない想像ではなく,構成的計算と神託的計算との「自律的」かつ「相互触発的」な「連動する運動態」として構想すること.これはハーネスや間接的相互作用に導かれたわたしたちの美学にとってきわめて重要な倫理観です.(p.169)

必要な手続き(アルゴリズム)を自ら構成し,その具合を実時空間のなかで目や耳を使って眺め・聴くことを繰り返して確かめ,時間をかけて理解する.たしかにこれは,「身体に根ざした理解」です.しかもそれは,あたかも植物を「栽培」するとき,発育環境を整備した後はその生長・生成過程(計算)を「見守る」(観測する)しかないように,時間をかけて,「仕組みの理解」と「現象の表現」とが,そして「深層」(アルゴリズム)と「表層」(ビジュアライゼーション,オーラライゼーション)とが「分離不可能」になるような,適切な地点を見出していくことです.それが適切であるかどうかは,自然が教えてくれます.(p.170)
あたらしい美学をつくる,秋庭史典

《Call ⇔ Response》 では,ヒトとコンピュータとがつくる「情報の流れとしての世界」の中に「美」を見つけることはできるが,「痛み」を感じることはできないのではないか?
本当に「身体に根ざした理解」なのか?
「深層」と「表層」とが「分離不可能」な地点なのか?
───
ハーネスとしてのマウスとカーソル
ヒトとコンピュータとのあいだのハーネス
→マウスとカーソル
ヒトとコンピュータとのあいだの情報の流れを整えている,あるいは整えてきた.
この「ハーネス」を破壊する.
「allo」を測量するだけでなく,「allo」に一撃を加える.


エキソニモ《断末魔ウス》の感想@愛知淑徳大学:映像文化

ちょっとよくわからなかったです!

なんというバカ
愛すべきバカ

マウス萌というものを味わいました。

マウスはタフですな
カーソルが生きているように見える

何回もハンマーで叩き続けて、最後に一瞬にしてネズミになって(映像の編集で)視聴者がハッとするという映像かと思ったのに、意外と普通だった。
私は地味だと思った。

マウス虐待してるみたい

マウスのカーソルに注目したことがなかったので不思議な感じがした

むちゃシュールだと思いました

水没させる様子を見るだけでなく、実際にカーソルも動くことで、マウスが機能しなくなる瞬間をリアルに見れることができると思った。

シュールでした。
マウスがだんだんわら人形にみえてきました。

マウスがかわいそう………。

なんかかわいそう
あ、死んだって思うwww
結構すきwww

マウスが壊れる瞬間っていうのが矢印でよくわかって、物なんだけど人間みたいなリアルさがあって可哀想に思えた

最初はカーソルを意識して見ていなかったのであまりよく分からなかったし、特に何も感じなかったけれど、カーソルの動きを意識して見るとなんだかマウスがもがいているように見えて、少し怖かったし残酷に見えました

金づちで殴るバージョンが衝撃的だった 
マウスに気をとられてマウスが破壊されたことに気を取られてるうちにカーソルが動かなくなって 
2回それが死んだ気がした 

シュールな映像だと思った
カーソルは始め気づかなかった

マウスがまるで生きているかのようにみえて、かわいそうに思えるのが不思議だと思った。

地味に面白い。
ちゃんとカーソルが頑張ってる。

断末魔ウス
なんかとても見覚えがあるのですが?!
取り敢えず一番の見所の燃やすの見ましょうよ
ついでにキーボードクラッシャーも見ましょうよ

拷問を見ているような気分でした。映像(壊されるマウス)と現実(制御不能になるカーソル)がリンクしているのが怖いです。が、私は好きです。

マウスを壊す事態見ることがないのに、マウスが壊れてカーソルが動かなくなる瞬間まで見れてしまい不思議な感じがした。

無機物のマウスが生き物のように動いていて、見てるこっちが痛くなってきた

断末マウス感想
最初に説明があったけど
よくわからなかった。
何が伝えたいのかが気になった。

断末魔ウス
言われるまでカーソルに見向きもしませんでした。
何故こんな映像を作ったのだろう…。

マウスってわりと頑丈なんですね
ってか、壊す必要あるんですか?

無機物なのになんかグロい

マウスを壊すことはもったいないけど
もっと見ていたかった
意外と丈夫だった

超シュールでした。
水死したマウス君のポインタの動きはすごかったです。

マウスを虐待してるみたいにみえた
こういう壊す系のものは見ていてかなしくなる

いきなりマウスを
叩き出したり、
水に沈め出したり
びっくりした。
ドリルで穴を開けられて
いるのを見てマウスが
嫌がって暴れているように見えた。

カーソルがマウスの気持ちとかマウスに起こっていることを象徴してるように感じた。
マウスを壊してる映像自体はあまり快くないけど、素直に「なるほど」や「再生してるPCのマウスとリンクしてるのがすごい」と思った。

マウスを壊すのを映像にする意味がわからない。
映像とデータを一体にするなら、もの壊すのではなく作るのを扱う方がいいと思いました。

なんだろ…
切なくなりました(-_-)

叩く映像はそんなに悲しくなかったけど(私もイライラしたらマウスをバンバン叩くのでww)水死と穴を空けるのはカーソルの動きが苦しそうでなんだか悲しくなりました…
なんか、「あ"あ"あ"あ"あ"あ"…」って言ってるみたいな…
…まさかマウスに感情移入する時がくるなんて…。

マウスなのに
心が痛かった。
ずっと見ていたら
病んできそう。

映像の中の映像が映像に繋がっている…?
現実にリンクしているわけではないのに現実っぽい不思議な映像だと思いました。

マウスが可哀想でした…
こういった映像環境をテーマにした作品は初めて見ました。
マウスに人格が宿った…確かにそう感じました。
作品自体もインパクト大でしたが『断末魔ウス』という題名も面白い

叫び声もなければ血もでない。カーソルがなければただ物を壊されているだけの映像ととらえてたと思う。けれどカーソルの動きがあることによって同じ映像でも壊されている→殺されている映像のように感じてしまう。
カーソルひとつでこんなにも映像の見方を変えれるのか、と驚いた。そしてこれは私たちが普段からマウス⇔カーソルと意識しているからこそ成り立つ作品なので、パソコンがこんなにも身近になっていることを改めて実感した。

マウスという無生物を、殺す(壊す)ことによって生命を宿らせる…というのは矛盾しているように思うが、そんな感じの印象を抱いた

マウスが可哀想だと思った
生き物を見る目で見てしまった

「断末魔ウス」はニコ動の「やってみた」系の映像に近いもの…なのかも
なぜなら、ひとつなら映像としてなりたたなくても、なにかと組み合わせる努力によって、映像としてなりたつから。

あとあれ(マウス)永遠に死なない存在ではなく、永遠に死に続ける存在ですよネ
まるで場所に縛られて落ち続けるノみたい

断末魔ウスはすこぶるシュールな映像でした。

マウスを壊すところの意味・意図がよくわからない
いろいろなパターンでどこまでやれば死ぬのか、共感を煽っているのだろうか?

断末魔ウスの感想
この動画みて、マウスがとてもかわいそうにおもいました。あんなことしなくてもいいのにとおもいました。
しかし、自分のパソコンのマウスが乗っ取られるのは面白いと思いました。

これは私たちが普段からマウス⇔カーソルと意識しているからこそ成り立つ作品
→「マウス⇔カーソル」という「意識の流れ」を破壊することで,あたらしい「痛み」を作り出している?

「情報の流れ」の中にヒトが入り込んでいる.だから,ヒトの行為がカーソルの位置情報という「ログ」として残される.「情報の流れ」を破壊することで,あたらしい「痛み」を作り出している.
→生物としてのヒト単体の痛みではなく,ヒトとコンピュータとの複合体がつくる情報の流れの中での「痛み」
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プロトコル

もちろん,人間が行う計算では,どの状態遷移を計算とみなすかという観測のルールを決めるのは,神ではなく,観測者です.しかし,そのルール決めがどうでもよいものではないことは,明らかです.すでに引用したとおり,ライプニッツは次のように考えているからです.「記号 [の選定] 自体は恣意的であっても,その記号の用い方や記号同士の結合には恣意的ではない」,つまり,「記号と事物の一種の相応と,同一の事物を表している異なった記号同士の関係は恣意的ではないのです.そしてこの相応や関係が真理の基礎」なのです.ライプニッツ的な考えを採用するからといって,神を必要とするわけではありません.(pp.96-97)
あたらしい美学をつくる,秋庭史典

ヒトにとってそのような数字を覚えて使うことはとても難しいが,コンピュータにとっては非常に容易である.DNSを批判するTed Byfieldは「もっとも身近な問題は,IPアドレスの元にある「機械的」な数字にDNSの「ヒト化された」名前をどのように対応させていくかである」と書いている.コンピュータは数字をとても簡単に理解し,ヒトは言葉を理解する.このように,World Wide Web におけるどの処理よりも前に,打ち込まれたウェブ・アドレスはIPアドレスに変換されなくてはならない.

www. rhizome.org ↔ 206.252.131.211

この変換は「解決」と呼ばれる.これがDNSが存在する理由である.もしDNSがなかったとしたら,インターネットのアドレスはもっと電話番号や郵便番号に近いものであったであろう.そのかわりに今では,それらは長い言葉のようになっている.
 (p.47)
Protocol: How control exists after decentralization, Alexander R. Galloway

www. rhizome.org ↔ 206.252.131.211
コンピュータ↔ヒト

『プロトコル』が示すのは以下のようなインターネットの2つの性質である.ひとつは水平的な性質(コミュニティ・ネットワーク;TCP/IP),もうひとつは垂直的な性質(ネットワークの層化:DNS)である.(p.xvii)
Foreword: Protocol Is As Protocol Does, Eugene Thacker
Protocol: How control exists after decentralization, Alexander R. Galloway


つまり,カントは諸知覚という水平次元に,悟性概念といういわば垂直の次元を導入することによって,ホッブス,ヴォルフ,バウムガルテンらが〈記号論〉として考えていた「事物と事物との結合問題」──この根拠は「記号そのものに帰せられる」ものであった──を,認識論問題として解消することになる.つまり,記号と記号対象の結合の問題は,カントにおいて,超越論的統覚という主観の意味付与という問題に置き換えられることになった.そこでは,

記号ー記号意味ー記号対象
から記号ー超越論的統覚ー記号対象

という紐帯の変革が成立し,もはや,〈事物を記号として〉考察する記号論の役割は意味をなくすことになる.つまり,それまでは記号それ自身のうちに内在していた意味=紐帯を,〈一つの意識〉の側に吸い取ってくることになったのである.(pp.112-113)

カオス系の暗礁をめぐる哲学の魚,黒崎政男

TCP/IPという「マシンより」のプロトコル.DNSという「ヒトより」のプロトコル
これらふたつのプロトコルがひとつの複合体となることで,インターネットは機能している.

マウス↔カーソル
ヒトとコンピュータとの複合体の認識の問題

マウスとカーソルにおいてはどうか.
マウスが「ヒト」よりで,
カーソルが「マシン」よりか?
あるいは逆か?

ヒトとコンピュータとのあいだの情報の流れという「水平」方向の展開の内にあるマウス.

コンピュータの中に「垂直」構造を作り出すカーソル.

マウスが「コンピュータより」,
カーソルが「ヒトより」と考えられる.

カーソルは感覚をまとめ上げる「超越論的統覚」のようなものとして,ヒトとコンピュータを複合体にしていく機能を担っているのではないか?

カーソルはヒトとコンピュータをひとつの複合体としてまとめあげる.その過程で,ヒトは「情報の流れ」に組み込まれる.

エキソニモの《断末魔ウス》は,マウスというコンピュータの感覚次元を物理的に破壊すると同時に,ヒトとコンピュータを複合体にまとめ上げるカーソルを「破壊」している.これは「情報の流れ」の破壊であり,複合体としてのヒトはそこに「痛み」を覚える.

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