事が起こった後の「背面|前面」
「世界制作の方法」展のエキソニモ展示のつづき,今のところこれが最後.
《ゴットは、存在する。》の展示で,壁から引きずり降ろされたディスプレイの作品がある.これの個別のタイトルは分からないけれど,今,この作品がとても気になっている.この作品のディスプレイは「かつて」壁に設置されていたと思われる.しかし,何らかの「力」でそこから引きずり降ろされた.これらことを壁に残された痕跡が示している.事が起こったあとを,鑑賞者は見る.ディスプレイは床に向けて倒されており,鑑賞者はその背面の黒い樹脂の部分を見ることにある.ディスプレイは床にべったりと倒れているのではなく,Mac mini の上に倒れかかっている.なので,ディスプレイと床とのあいだには隙間がある.その隙間から,ディスプレイが発している色鮮やかな光が見える.
光は見えるが,それが何を映しているのはかはわかない.ただ光っている.壁から引きずり降ろされたかもしれないディスプレイは床に向かって,Mac mini から送られてくる信号から生成した光を発している.ひとつの破壊が行われても,それでもなお何かを映し続けているディスプレイ.何を映しているのかはわからない.ヒトがその映像を見ることができないディスプレイに意味はあるのか.ヒトは背面の黒い樹脂しか見ることができず,前面の映像は見ることができない.ここでのディスプレイはイメージの次元を暴力的に破壊され,モノの次元で存在している.しかし,破壊されてもイメージは何かしらの像を結ぶことがないままに漏れてくる光として提示されている.
帰りの電車の中でこの作品について考えていたときに,エキソニモが Web Designing で連載していた「view-source」の「天地創造と不可視IMG神 」を思い出した.見えないけれど機能する「spacer.gif」にまつわる神話.
この作品はカーソルもマウスもでてこない.そこにあるのは,何か事が起こった後の黒い樹脂の背面と前面が光を放つディスプレイと呼ばれる装置とそこに繋がれた黒い林檎を背負ったMac miniだけ.それでもすごく気になる.自分的にはディスプレイに「背面」「前面」があるという当たり前のことを気づかせてくれたこと.しかも,それが暴力的な行為の結果として提示されていることがとても気になっている.ここには,事が起こった後の「背面|前面」があるのではないだろうか.そして,《ゴットは,存在する。》と《ゴット・イズ・デット》というふたつの作品の関係でも気になる.もう一度見に行ったときに,また考えたい.