お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_23
記事を書きました→スロベニアのリュブリャナ市民ギャラリーで「net.art Painters and Poets」が開催中
ネットアートがポスト・インターネット化を試みる方法としてリアル展示をしているというような内容です.インターネットの後に出てきたという意味では,ネットアートもポスト・インターネットアートも同じなわけです.ポスト・インターネットアートの影響からネットアートが変容していく,というようなことをネットの情報から書きました.展示の特設ページ(dead link)のポップアップウィンドウが開きまくる感じが懐かしくもあり,でも,そのデザインが今っぽくもあって,味わい深いです.
ボツテキスト
同時に,自分たちよりも若い世代が考案した「net.artdatabase」のフォーマットで展覧会の予告動画をつくり,リアルとネットが相互にインタラクションしている場を提示している.それは単にいつもネットをやっている風景にすぎないのだが,デスクトップやノートブックというパソコンのかたちに合わせて,ネットを体験しているリアルの場が変化していることが示されている.net.artにおけるネットとリアルとの関係を再考するようなこれらの展示形式に加えて,ネットもリアルも等価値に扱う「ポストインターネット」と呼ばれる状況のなかで作品をつくるアーティストの作品も展示することで,net.artが示してきた「リアルよりもネット」という関係が,2014年というポストインターネットのように「ネットもリアルもほぼ等価値」なものとして示せすことができるのでは.と問いかけているような展示の流れになっている.
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ネットとリアルとは等価値とは言いつつも,net.art世代のĆosić氏はひとつひねりを加えている.それは展覧会の特設サイトには展示されているすべての作品のリンクが掲載されていることである.私は日本にいながらにして,今回の展示されている作品をネットでは見ることができる.リアルな場所限定せずに作品を体験できるというのは,net.artだけでなく現在インターネット上で展開さている表現の大きな利点である.しかし,作品の本来のかたちはそのリンクの先にあるとなると,ギャラリーでの展示で作品を見るという体験は何を意味しているのであろうか.net.artを含めてネットアートをリアルにインストールする際にĆosić氏とGregorič氏がとった手法は,その歴史を参考にした流れを「絵画」や「詩」といった伝統的な美術のジャンルで提示し,Jodimapのようにネット上の作品をリアルにインストールして,ネットではなくリアルを強く意識させることであった.ポストインターネットがネットもリアルもあまり意識しないでそのあいだを行き来しているとすれば,その横に展示されたnet.artの作品群はかつてはネットを強く意識していたが,今回は展示の方法を上手く使うことでリアルを強く意識している.発表から20年のちかくの時を経て,ネットとリアルのどちらを「強く」意識させるかの軸を移しながらも,これら2つの世界の「どちらかを強く意識させる」という形式において過去と現在とを等価値に置こうとしているのはnet.artらしいのではないだろうか.
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ネットアートがポスト・インターネット化を試みる方法としてリアル展示をしているというような内容です.インターネットの後に出てきたという意味では,ネットアートもポスト・インターネットアートも同じなわけです.ポスト・インターネットアートの影響からネットアートが変容していく,というようなことをネットの情報から書きました.展示の特設ページ(dead link)のポップアップウィンドウが開きまくる感じが懐かしくもあり,でも,そのデザインが今っぽくもあって,味わい深いです.
ボツテキスト
同時に,自分たちよりも若い世代が考案した「net.artdatabase」のフォーマットで展覧会の予告動画をつくり,リアルとネットが相互にインタラクションしている場を提示している.それは単にいつもネットをやっている風景にすぎないのだが,デスクトップやノートブックというパソコンのかたちに合わせて,ネットを体験しているリアルの場が変化していることが示されている.net.artにおけるネットとリアルとの関係を再考するようなこれらの展示形式に加えて,ネットもリアルも等価値に扱う「ポストインターネット」と呼ばれる状況のなかで作品をつくるアーティストの作品も展示することで,net.artが示してきた「リアルよりもネット」という関係が,2014年というポストインターネットのように「ネットもリアルもほぼ等価値」なものとして示せすことができるのでは.と問いかけているような展示の流れになっている.
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ネットとリアルとは等価値とは言いつつも,net.art世代のĆosić氏はひとつひねりを加えている.それは展覧会の特設サイトには展示されているすべての作品のリンクが掲載されていることである.私は日本にいながらにして,今回の展示されている作品をネットでは見ることができる.リアルな場所限定せずに作品を体験できるというのは,net.artだけでなく現在インターネット上で展開さている表現の大きな利点である.しかし,作品の本来のかたちはそのリンクの先にあるとなると,ギャラリーでの展示で作品を見るという体験は何を意味しているのであろうか.net.artを含めてネットアートをリアルにインストールする際にĆosić氏とGregorič氏がとった手法は,その歴史を参考にした流れを「絵画」や「詩」といった伝統的な美術のジャンルで提示し,Jodimapのようにネット上の作品をリアルにインストールして,ネットではなくリアルを強く意識させることであった.ポストインターネットがネットもリアルもあまり意識しないでそのあいだを行き来しているとすれば,その横に展示されたnet.artの作品群はかつてはネットを強く意識していたが,今回は展示の方法を上手く使うことでリアルを強く意識している.発表から20年のちかくの時を経て,ネットとリアルのどちらを「強く」意識させるかの軸を移しながらも,これら2つの世界の「どちらかを強く意識させる」という形式において過去と現在とを等価値に置こうとしているのはnet.artらしいのではないだろうか.
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追記 2024/04/11
ネットではすべて観れると2014年に書いた展覧会に2024年の今,アクセスできない.Dead Link.これもまたネットということかもしれない.リンクの儚さというか,これぞ情報という感じでもある.物質の堅牢さというか,物質とは異なる存在のあり方としての情報という存在のことを,私たちはDead Link,リンク切れを通して体感している.もちろん,データが消えたという体験もあるけれど,情報と情報とを結ぶ情報が切れると,アクセスできないという状態が生まれる.アクセスできないということを簡単に体験できることが重要なのかもしれない.