飲み会テキスト:「体言止め」にしたのは,何かここで「切り落とし」たい気持ちがあったから
マテリアライジング展2を見に行った.OAMASの2つの研究室の展示:谷口暁彦研究室《物的証拠》,渡邉朋也研究室《ツナとマヨネーズ》を見に行ったという方が正しいかもしれない.なんだろう,情報と物質とそのあいだ,にあるのはヒトという感じ.ヒトってなんだろう.ヒトがかんじられる「不在」ということ.「ない」ということ.紙に書かれた山折り谷折りが示す情報と,そのまま折ること.いや,物的証拠はそこにあるけれども,それとともにある情報はまた別の次元にあるようで,物的証拠にくっついている.
「ない」ことに感覚・関心・興味を向けること.それが重要.「ない」ことを感じるには,まず「ある」ことを考えないといけない.それは感覚を研ぎ澄ますとかではなくて,そこに「ある」ことを素直に認めればいいということ.「ある」ことを「ある」ものとして認識していくこと.
「ある」という認識があって,そこから「ない」ことへの考察・分析がはじまる.「ある」と確かに実感できないものをデータにして,かたちにしたころで,それは「あー,そうですか」というものにしかならない.もっと,「ある」ことを認識して,それに実感をもたないといけない.
「ある」を考えることは「生きていること」をどう考えるのかということにつながるのかなと思う.でも,このように考えるのは僕がOAMASのふたりに最近,インタビューしたという事実,そこでナマのふたりに会っているということが大きな影響を与えているかもしれないけれども,そんなことなんだと思う.どこか1つの場所からしか物事は見ることができないのであって,そのときにそのひとつの場所に「ある」ことを肯定できるかどうかが問題なのだと思う.
「肯定」は少し違うかもしれないけれど,なんだろう,目の前にある物事を受け容れ,分析していくこと.分析が先にあるのではなくて,物事の認識が先にあること.これが大切な気がする.
認識したあとに,それを分析して,バラしていく.分析して,バラして,認識するとは逆の手順.
上の文字列を書いてから,歯を磨いてたりして,ちょっと時間がたったあとで,また書き始めているわけだけれど,このあとを続けられるかはわからない.
こうした自分のこと[書いている時間]を含めた認識をすること,それが大切なような気がする.それ以外の手法が悪いというわけではなくて,それは自分にとっては「大切」という文字列を与えられる価値があるということ.「体言止め」にしたのは,何かここで「切り落とし」たい気持ちがあったから.[直前の文は「体言止め」ではない]「と思う」でもないし,「と考える」でもない,その前にあるひとつの確信.
でも,そのときの「自分」というのはどこまでが「自分なのか」を考えると,それはとても厄介なことになる.ポケットのなかにあった折り曲がったレシートも自分なのではないか.だって,それが折り曲がっているのは,自分がポッケに入れたからなのだから.そして,それを「自分」あるいは自分の行為の情報と思うことが大切だと思う,価値観.いや,「大切」でなくてもいいのかもしれない,それが「気になれば」,それでいいのかもしれない.
物的証拠だって,それが物的証拠として残っているものはそのまま残しつつ,いや,そのまま残しているのではなくて,映像にしているわけで,そこにはもう「そのまま」という言葉は使えない,映像になっていないものもあるけども,モノがイメージになり,イメージがモノになるという関係を,物的証拠への考察を通してやっている感じがする.それは物質と情報というわけではくて,きっと,目の前で起こっていることの認識の解像度をどこまであげることができるのかを試して,その結果のイメージとモノとの分離だと思う.そして,「分離」することではじめて,そこに情報と物質という区分けが生じるのかなと考えてみたけれど,そうではなくて,「分離」することで,分離された一方が消えてしまう,その消えるものを残そうとすることで,そこに情報が生じるのだろう.
OAMASのふたりに,レシートから分離の果てに消えていった鈍器のようなもので殴られて,覚醒したい.
「ない」ことに感覚・関心・興味を向けること.それが重要.「ない」ことを感じるには,まず「ある」ことを考えないといけない.それは感覚を研ぎ澄ますとかではなくて,そこに「ある」ことを素直に認めればいいということ.「ある」ことを「ある」ものとして認識していくこと.
「ある」という認識があって,そこから「ない」ことへの考察・分析がはじまる.「ある」と確かに実感できないものをデータにして,かたちにしたころで,それは「あー,そうですか」というものにしかならない.もっと,「ある」ことを認識して,それに実感をもたないといけない.
「ある」を考えることは「生きていること」をどう考えるのかということにつながるのかなと思う.でも,このように考えるのは僕がOAMASのふたりに最近,インタビューしたという事実,そこでナマのふたりに会っているということが大きな影響を与えているかもしれないけれども,そんなことなんだと思う.どこか1つの場所からしか物事は見ることができないのであって,そのときにそのひとつの場所に「ある」ことを肯定できるかどうかが問題なのだと思う.
「肯定」は少し違うかもしれないけれど,なんだろう,目の前にある物事を受け容れ,分析していくこと.分析が先にあるのではなくて,物事の認識が先にあること.これが大切な気がする.
認識したあとに,それを分析して,バラしていく.分析して,バラして,認識するとは逆の手順.
上の文字列を書いてから,歯を磨いてたりして,ちょっと時間がたったあとで,また書き始めているわけだけれど,このあとを続けられるかはわからない.
こうした自分のこと[書いている時間]を含めた認識をすること,それが大切なような気がする.それ以外の手法が悪いというわけではなくて,それは自分にとっては「大切」という文字列を与えられる価値があるということ.
でも,そのときの「自分」というのはどこまでが「自分なのか」を考えると,それはとても厄介なことになる.ポケットのなかにあった折り曲がったレシートも自分なのではないか.だって,それが折り曲がっているのは,自分がポッケに入れたからなのだから.そして,それを「自分」あるいは自分の行為の情報と思うことが大切だと思う,価値観.いや,「大切」でなくてもいいのかもしれない,それが「気になれば」,それでいいのかもしれない.
物的証拠だって,それが物的証拠として残っているものはそのまま残しつつ,いや,そのまま残しているのではなくて,映像にしているわけで,そこにはもう「そのまま」という言葉は使えない,映像になっていないものもあるけども,モノがイメージになり,イメージがモノになるという関係を,物的証拠への考察を通してやっている感じがする.それは物質と情報というわけではくて,きっと,目の前で起こっていることの認識の解像度をどこまであげることができるのかを試して,その結果のイメージとモノとの分離だと思う.そして,「分離」することではじめて,そこに情報と物質という区分けが生じるのかなと考えてみたけれど,そうではなくて,「分離」することで,分離された一方が消えてしまう,その消えるものを残そうとすることで,そこに情報が生じるのだろう.
OAMASのふたりに,レシートから分離の果てに消えていった鈍器のようなもので殴られて,覚醒したい.