JAGDAトーク_予習

明日(7月28日)に行なわれるJAGDAトークの予習.あくまでも頭を整理すための予習であって,この通り話す(した)わけではありません.





「ポスト・インターネット」というお題を頂いたときには何度も取り上げているArtie Vierkantの「image-objects」.最初,デジタル画像でそれをモノにプリントアウトして,展示して記録する.その後に,展示写真をPhotoshopで加工する.展示したオブジェクトが「主」で,他のデジタル画像や加工されてネットを流れている画像が「従」というわけではない.どちらかというと加工された画像が「主」.リアル展示を見たことがないのだけれど,彼の作品はもう充分に見ている感が強い.モノの存在感がとても希薄.

Artie Vierkantはどのようにして作品を売っているのであろうか? ギャラリーの展示したオブジェクトを売っているのか,それともネット上を流通する画像も売っているのか,それらをセットにして売っているのか,最初につくったデジタル画像は売るのかどうか.彼のテキスト,インタビューにはこのあたりのことは書かれていない.





Artie Vierkantも参加している「Compression Artifacts」.キュレーションはJoshua Citarella.この展示は,どこかの山のなかに展示室をつくって作品を展示,その後,すべてを燃やしてしまって,残ったのは灰のみというもの.実際にはもう誰も見ることができない展示を記録画像を通してみる.林のなかに展示室が忽然とあるという画像は,Joshua CitarellaとArtie Vierkantも参加しているTumblr「the jogging」っぽい.それ以外にも多くの展示記録画像があるのだが,それらは展示室に「天井」があったり,部屋の広さがまちまちであったりと多分に加工されている.「写真は見えている現実とのギャップを埋めるものではなくて,主観とのギャップを埋めるもの」とJoshua Citarellaは展示のテキストに書く.「image-objects」と同様にモノの存在感が希薄なようでいて,写真に映っている「砂=灰」がどこかモノ感を醸し出してて,「火」という現象とその粗い画像が強いドキュメント感をつくってもいる.


「物的証拠」.それはどこにあるのか.「物的証拠」はそこにあるのか,ないのか.「あるけどないのか」.Joshua CitarellaとArtie Vierkantは「物的証拠」を限りなくすことで,作品をインターネットへと移植する.「物的証拠」とインターネットとのあいだには,あるプロセスがあって,それ自体は私たちは見ることができない.私たちが見るのは「結果」だけである.谷口暁彦の《物的証拠》は,物的証拠=物質とインターネット=情報とが分離していくプロセスを見せつつ,その結果も同時に見せている.私たちは「物的証拠」とそこから分離した情報を同時に見ている.「分離した」情報と書いたけれど,谷口は情報が「分離していく」プロセスも見せている.それは,モノから分離していく情報を見ることであり,情報から分離していくモノを見ることでもある.結局は,《物的証拠》では「物的証拠」を見ることはなくて,「物的証拠」になりつつあるモノと情報とを見ていることになる.モノ感が希薄ということはないけれど,インターネットに関係しているのかというと別にネットにもつながってもいないけれど,どこか「image-objects」「Copression Artifacts」を感じさせる作品.




「モノ」と「情報」とは分かれない.渡邉朋也とレシートの相互作用の履歴としての山折り谷折りの折り線.渡邉朋也の行動の履歴としてのレシートという意味での情報の存在感は極めて薄い.レシートとしてのモノの存在感も極めて薄い.「同じように折られたレシート」というモノの存在感が極めて濃い,それは同時に「レシートが同じように折られた」という情報の存在感も極めて濃い.

コピーは価値が低いかもしれないが,ひとりの人物が5つのコピーを同じように折るとそこに価値が生じる.渡邉朋也はその価値をデコードして「山折り谷折りの折り線」にしたので,同じように折っても価値は生じない.いくらでも,誰でも同じように折ることができる.

Artie Vierkant,Joshua Citarella,OAMASのふたり(谷口暁彦,渡邉朋也)は,モノと情報とがいかにして分離できるか,あるいはできないのかを検証している.アナログとデジタル,リアルとネットという二項対立のなかでの思考であることは確かであるが,彼らの思考ではこの二項対立はそこに確かにあるものではなくて,その成立過程を検証するものになっている.検証の結果,そこにリアルとネットといった二項対立が成立するときもあれば,成立しないときもある.二項対立のもとでの検証を進めることで,二項対立自体が成立する場が明らかになる.それは必然的に二項対立が占める領域よりも広いものになる.

リアルとネット,モノと情報をめぐる彼らの作品・思索から菊地敦己,Nerholの活動を考えてみたらどうだろうか.また,菊地敦己,Nerholの作品・思索からArtie Vierkant,Joshua Citarella,OAMASのふたり(谷口暁彦,渡邉朋也)の活動を考えてみたらどうだろうか.

また,実際に作品を制作している菊地敦己,Nerhol,Artie Vierkant,Joshua Citarella,OAMASのふたり(谷口暁彦,渡邉朋也)と彼らの作品をネットとリアルで体験してテキストを書く私とのあいだにある隔たりはどんなものなのだろうか.














菊地敦己,Nerholの活動は「モノ」感が強い感じがする.「Sculptures(彫刻)」「彫る」ということがこの2組の作品のなかに入り込んでいるから,そのように感じるのかもしれない.ダウンロードできるデータの形式が「PDF」であったり,後戻りできないスクロールとその先の高解像度の画像が示す感じであったりも,とてもモノ感を感じる.しかし,上で取り上げた作品群と決定的に違うかというとそれはなく,同じような感覚が通底していると思う.

それは,
リアルとネットへの意識
ポストメディウムではなくて,今こそメディアの微分化が求められている
オリジナル(アート)とコピー(デザイン)の問題
といった感じでしょうか(ここで,いきなり出てきた単語ばかりですが…)

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