出張報告書_2016/04/15-17(別紙)あるいは,モノの「意思」の情報化/ヒトの意思の情報化
15日は東京・神保町の SOBO Gallery に渡邉朋也の「科学と学習」展を見に行った.
3階にあるギャラリーに階段を登っていくと,クレヨンで描かれたようなドローイングが壁一面に展示されているのが見えた.近づいて見てみると,ドローイングはドラえもんやディズニーのキャラクターの塗り絵の上にされていた.ドローイングの反対側の壁には,同じように折られた5枚のレシートとその折りを指示する折図(=折り紙の設計図)とを一組にしたものが,3つ展示されていた.さらに,床にはカップラーメンの空き容器,食べたものの包装がゴミとしてまとめて入られたコンビニの袋,コンビニに売っている焼きそばか何かの空き容器の3つが薄い金属製の台座に置かれていた.これら3つのモノに共通してあるのが食べたときに使われた割り箸であり,割り箸の片割れは3Dプリントされたものに置き換わっている.
レシートと3Dプリントされた箸は,渡邉が参加したグループ展「マテリアライジングⅡ・Ⅲ」や「みえないものとの対話」で見たことがあった作品であった.はじめて見た塗り絵の上にドローイングを行った作品には,レシートと箸の作品とは異なる感じを受けて,見ているときに,それが何を意味しているのかがわからずにモヤモヤした.渡邉はレシートの作品を《ツナとマヨネーズ》というタイトルで出品したマテリアライジングⅡ展のときに「情報と物質と私」というタイトルのエッセイを書いている.しかし,渡邉はこれまでの割り箸やレシートの作品で「情報」と「物質」との関係を処理していく過程に「私」が出てくることを極力抑えていたのではないだろうか.割り箸の3Dプリントであり,折図に基づいて折られたレシートにおいて,「私」は「物質」を計測して「情報」にし,その「情報」を具現化して「物質」をつくる処理装置に徹していた.けれど,塗り絵の作品においては「私」が「情報」と「物質」とのあいだに入り込んできている.その「私」が,作品を見ている私にモヤモヤを引き起こしたのではないだろうか.
レシートの作品と割り箸の片割れを3Dプリントした作品とは構造が似ていると考えられる.割り箸の作品の値段はその割り箸で食べたものの値段なので,作品価格のつけ方はレシートとは少し異なるけれど,作品自体のつくられかたは似ている.割り箸が割られる,レシートがポケットのなかで折られる.それぞれ「割られる」「折られる」という行為が起きるとき,ヒトの意思の介入はほとんどおこらない.割り箸を割るプロがいれば,そこに意図を強く出すことができるだろう.しかし,多く人は割り箸をただ割り,割り箸が「勝手に」割れる.多くの人はレシートを折ろうと思うこともなく,ポケットのなかのレシートが「勝手に」折れている.「勝手に」というのはモノに意思があるような表現であるが,この場合は割り箸とレシートの材質や気温,湿度,ヒトからの力,ポケットの材質などの複数の要素が複雑に絡み合って割れたり,折れたりするとき,そこではあたかも割り箸やレシートが「自ら」行為したかのように様々な割れ方や折れ方をみせる.だから,「勝手に」という言葉がその状況を記すのに最適と考えたのだけれど,要はとても多くの要因が絡んでいて,それがどのように割れて,折れるのか予測ができないということを表したかったのである.ヒトは予測できない現象に対しては,そこに意思があるように認識するような傾向があるのではないだろうか.どうしてそれが起きたのかがわからないままでは気持ち悪いから,「意思」を原因として与えて,その気持ち悪さを解消する.とはいっても,レシートと割り箸の作品にはモノの「意思」が強く出ているわけではない.なぜなら,渡邉がモノの「意思」を情報化していくからである.
「割り箸が割れる」,「レシートが折れる」という現象から生じた木と紙の形状を渡邉は計測する.その結果,割り箸は数値化されて3Dモデリングされ,そのデータに基づいて出力される.レシートは折りの情報が解析され,折図にまとめられて,渡邉が折図に基づいて折ることで情報は具現化され,同じ形状のレシートがつくられる.この一連の行為によって,モノの「意思」は情報化されて,渡邉というヒトやコンピュータによって処理されていく.この情報処理過程において,処理を実行する主体のひとつのである渡邉の,ヒトの意思を感じることはないとはいえないが,極めて少ない.もちろん,一連の行為,情報処理過程の設定には渡邉の意図が強く出ていることことはもちろんである.しかし,枠組みを設定した後に,渡邉というヒトはそこから消える.割り箸の作品では,最初に起こる「割る」という行為以降に,渡邉の意図が入り込む要素はほとんどない.渡邉は割れた形状をできるだけ正確に計測することに集中する.そこには正確に計測しようとする意思はあるかもしれないが,正確に計測すればするほど,そこにはヒトの意思のようなものはなくなり,機械的な複製に近づいていく.レシートの作品はレシートに記載されたコンビニや値段のちがいや,レシートどちらの面を表にして折るのかなどに渡邉の意図を感じるところはある.しかし,折図に基づいて正確にレシートを折るというときには,正確に折れば折るほど渡邉というヒトの意図に基づいた行為というよりも,コンピュータによる情報処理に基づいた出力が行われているという感覚がある.
割り箸とレシートの作品に対して,塗り絵の作品にはキャラクターの選択や塗り絵の塗り方に渡邉,ヒトの意図が強く感じられた.渡邉の意図が,私が作品を見ているときに感じたモヤモヤを引き起こしたのであろう.これまでの作品から受け取ることがなかった,渡邉というヒトが強く出てくる感じを受けた.例えば,誰もが知っているようなキャラクターが選択された塗り絵には,渡邉の嗜好を感じてしまう.けれど,単に本屋などでたまたま渡邉が見つけた塗り絵が展示されているだけであって,そこには特別な意図はないのかもしれないし,今までの渡邉の作品から考えると,塗り絵の選択に意図はないと考えるのが正解なのだろう.それでもキャラクターに対して,塗り絵の指示に全く従わずに小さな子供がするように「グチャグチャ」に色を塗るという行為には,渡邉,ヒトの意図を感じずにはいられない.しかしこれもまた覆される.塗り絵の塗りはよく見るとほぼ同じ塗り方になっていて,もしかしたらこれらはドローイングマシンが塗ったのであって,ドローイングマシンが塗り方を学んでいく過程を示しているかもしれないと考えさせられる.しかし,渡邉が自分で塗っている可能性も捨てきれない.レシートのときは折るという行為にヒトが介入しているにも関わらず,その折りが正確に処理されていたために,恐らくレシートを自分で折っている渡邉にヒトではなくコンピュータのような情報処理マシンを重ねてしまうのに対して,塗り絵の作品は指示に従わない「不正確な」塗りのために,渡邉にドローイングマシンを重ねることができず,ドローイングマシンに渡邉を重ねるような状況に置かれる.それは塗り絵のキャラクターの選択や,ドローイングというプリミティブな表現行為を通して,どうしても渡邉の意思を感じてしまうように設定されているからであろう.実際には,渡邉はそこに何の意図も持っていないかもしれないけれど,それでもなおそこに渡邉=ヒトの意思を感じさせるような仕掛けが塗り絵の作品には組み込まれている.渡邉はモノの「意思」の情報化したのと同じように,ヒトの意思を情報化したのかもしれない.