批評誌『ヱクリヲ9』に寄稿





批評誌『ヱクリヲ9』に「ジェスチャーとともに写真のフレームを無効化する「写真」───ピンチイン/アウトによる「写真」の拡大縮小」を寄稿しました.身近な行為から「写真」について考えています.よろしくお願いします😊

『ヱクリヲ9』の「特集 写真のメタモルフォーゼ」の序論で次のように紹介されています.

水野勝仁による「ジェスチャーとともに写真のフレームを無効化する「写真」───ピンチイン/アウトによる「写真」の拡大縮小」は,かつて写真の本質的な特徴と見做された「フレーム」が現代の技術環境で見せる変容についての分析だ.ピンチ・イン/アウトというスマートフォンで一般化した触覚的な知覚はどのように仮想空間に作用しているだろうか.この未知の行動様式がもたらすメディア論的な可能性が見いだされる.p.10

ヱクリヲのTwitterでは次のように紹介されています.



『ヱクリヲ9』には他にもピンチイン/アウトに言及したテキストがあります.例えば,「特集 写真のメタモルフォーゼ」の冒頭を飾るインタビュー:清水穰「メディウム・スペしフィシティの新しい幽霊」で,清水は次のように述べています.

清水 画像は画像で一種の物ですが,小さいタブレットの液晶画面だとよく見えないからもっと大きくしようとして,自動的にこんなこと(二本指でピンチ・イン/アウトをする仕草)してしまうよね(笑).それは,画像の写真には大きさという概念がないからです.解像度にしても,デジタルデータの解像度はいまはとてもフレキシブルですよね.一昔前,『ニューメディアの言語』が出る前くらいは,例えば解像度が350dpiに決まったらそれが決定値だった.だけどいまは「この解像度になるように生成せよ」というプログラムによって圧縮率は保存されるので,見るたびに特定の解像度で生成される.さっきも言ったようにピクセルデータをシャッフルしなおすだけなので全然難しくないんだよね.pp.33-34

また,山下研の論考 「無数の「窓」───写真と絵画,あるいはその界面に」では,デジタル画像をもとに油彩画を描く橋本大輔の絵画を論じるところで,次のように書いている.

だが,そのような視覚体制の複数性自体もまた,ルールの実践同様取り立てて驚くことではない.橋本の制作過程で着目すべきは,そこに複数の視覚体制が技術的にも実践的にも「集合」されて一つのイメージを生み出していることだろう.この画家は素材となるデジタル写真を指で触り,ピンチ・イン/アウトしながら描き直している.細密な部分を描くとき,橋本は画像を拡大して「ウィンドウ」に表示させ,その動作を繰り返すなかで一枚の絵を完成させていく.この所作は,デジタル画像がつまるところ0と1の行列データであり,その近似値がモニターに表示されるという離散的な存在であるがゆえに可能となる.所与のフレーム=ウィンドウに合わせて表示されるデータは可変的であり,解像度の限界によるジャギーやグリッチを生成することはあれど,原理上どこまでも拡大することができる.  
このデジタル画像の「ウィンドウ」はそこに無数の「窓」を折り畳んでいることがその特徴だ.写真研究者の清水稔はデジタル画像のこの特性に触れ,そのイメージは「潜在的データ塊からある解像度で切り出した一断面に過ぎ」ないと述べる.それゆえ,一枚の「デジタル画像には未知の画像が『入れ籠』になっている」.だから,橋本による《観測所》は一枚のイメージではなく,ピンチ・イン/アウトによってその都度,生成された無数の「窓」の集合体なのである.p.172

これらの連関のなかで,私のテキストを読んでもらえると,ピンチイン/アウトとともに生まれている未知のオブジェクトとしての「写真」がディスプレイに切り出されている感じが別の角度からも浮かび上がってきて,面白いのではないかと思います!

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