memo20110901+:インターフェイス・リアリティ→インターネット・リアリティ!?
学生CGコンテストのUstream を見ながら,ふと「インターフェイス・リアリティ→インターネット・リアリティ」ということが思い浮かんだ.インターフェイスが作り出してきたリアリティと,インターネット・リアリティはつながるのか,それともつながらないのか.
カーソルを置き去りにスクロールするLion.ここではもうリアリティは変わっている.今のインターネットとともに歩んできたGUIによるリアリティ,マウスとカーソルとのつながりと,そこにあるウィンドウの関係で培われてきたリアリティ.このリアリティはインターネット・リアリティにつながるのか.
カーソルのリアリティもよく考えられてこなかったので,その延長でインターネットのリアリティを考えることもやられていない.衰退していっているかもしれないカーソルのリアリティ.衰退していっているからこそ理解できるようになっているカーソルのリアリティ.そこの部分とインターネット・リアリティをつなげてみるとどうなるのか.
傍観者でありながら,直接触れるカーソル.カーソルのこのねじれがインターネットのリアリティをねじまげる.どんなふうにねじ曲げているのかはわからないけれど,とにかく一筋縄ではいかない気がする.コンテンツのリアリティではなくて,インターネットのリアリティ.もちろんコンテンツの分析も必要だけれども,そのコンテンツを生み出している大枠を捉える必要があると思う.
ブレンダ・ローレルが演劇のメタファーで捉えたインターフェイス.演劇に「第四人称」を与える外山滋比古.インターフェイスは「第四人称」となるかと思えば,そこでのユーザは当事者でもあるから,傍観者として位置づけられる「第四人称」にはなることができない.けれど,ユーザは傍観者なのではないのかと考え直してみる.インターフェイスではすべてが仕組まれているとすれば,それは当事者でありながら,自らの行為を他人の行為のように眺めるしかない,カーソルを自分の延長のように感じながら,単なる映像とも見なしてしまうような傍観者的な立場にいるのかもしれない.そして,この当事者でありつつ傍観者でもあるような「第四人称」でもあるというのが,インターネット・リアリティを考えるヒントがあるかもしれないと思いつつ.