1960年代に起きた「描く」行為の変容と電気の光
1960年代に起きた「描く」行為の変容と電気の光:アイヴァン・サザーランドとダン・フレヴィンを手がかりに (19708字)
1.はじめに
1963年、アイヴァン・サザーランドは、最初のコンピュータ・グラフィック・システムと呼ばれることになる、スケッチパッドを開発する。以前、私は、スケッチパッドが、コンピュータの高速の演算能力と、CRT ディスプレイや、ライトペンといった電気の光を直接操作する装置を用いて、光の点を選択することで「描く」という行為を行える装置だということを示した1。しかし、なぜ、光の点を選択することが「描く」という行為になり、私たちが、そのことを受け入れてしまうかについては考察していなかった。「描く」とは、線を「引く」ことや絵の具を「塗る」という身振りであったはずである。サザーランドが、スケッチパッドを開発した年、ダン・フレヴィンは蛍光灯を単独で用いた作品《1963年5月25日の対角線》を発表する。そこにあるのは、壁に斜めに設置された8フィート(244センチ)の黄色い蛍光灯だけなのだが、蛍光灯から放たれる光が、部屋の壁や天井、床を絵画の表面にしてしまう2。この工業的に大量生産された蛍光灯を用いて制作される作品によって、フレヴィンはミニマリズムを代表する作家として知られるようになる。しかし、なぜ、フレヴィンは、蛍光灯という電気の光を放つ照明装置を使って、自らの作品を描こうとしたのであろうか。そして、この問いは、スケッチパッドが示す問題と重なるものがあるのではないだろうか。それは、電気の光が私たちの「描く」という行為に影響を与えており、その影響を踏まえた上で、改めて「描く」という行為が考えられ、具体化されていったのが、1960年代なのではないかということである。この問題を明らかにするために、本論考は、工学と美術と領域は異なっているが、ともに1963年に発表されたアイヴァン・サザーランドのスケッチパッドと、ダン・フレヴィンの蛍光灯を用いた作品を並べて考察することで、電気の光が「描く」という行為に与えた影響を検証していく。
そのために、まずは、1960年代までに、電気の光がどのような可能性を示し、その影響によって、私たちの想像力がどのように刺激されていたのかを考えなくてはならない。そこで、19世紀後半に、電気の光が、新しい光として、私たちの前に登場してきた際に示した可能性と、そこから派生した私たちの想像力がどのようなものだったのかをみていく。なぜなら、この初期の電気の光が私たちに与えた衝撃から生じた想像力は、私たちに大きな影響を与えていると考えられるからである。その後、1960年代に、電気の光が「描く」という行為に与えた影響を明確にするために、フレヴィンが、なぜ、蛍光灯を媒体として、自らの作品を描こうとしたのかを示す。最後に、電気の光が私たちに与えた影響から生み出された想像力と、コンピュータが示す新しい可能性とが出会うことによって生み出された装置という観点から、スケッチパッドを考察する。
2.電気の光という「見えない手」の登場
フレヴィンが作品のために用いる蛍光灯が放つものは、電気の光であるが、この人工的な光はどのようなものなのであろうか。それは、太陽や炎といった自然の光とは異なる性質をもつものなのであろうか。電気の光が登場するまで、夜の世界を照らしていたのは、焔であった。たき火からはじまり、松明によって持ち運び可能になった焔は、蝋燭や灯油ランプの登場によって、より使いやすくなっていった。しかし、これらの装置が作り出す焔は、暗く、消えやすいものであった。この問題点を解決したのが、ガス灯である。ガス灯は、灯芯をなくすことで、不安定な存在であった焔に、安定した明るさを与えると同時に、焔を自由に調節するという能力を、私たちにもたらした。しかし、ガス灯には、酸素を大量に消費し、熱を発するという大きな欠点があった。この欠点は、換気装置によって解消することができたが、それにも限界があった。また、ガス灯は、燃焼の際に、微量ながらもアンモニアや硫黄を発生させ、部屋を汚した。この熱さと汚れから、ガス灯は次第に不評を買うようになっていった。これらの欠点を克服した新たな照明が、電気照明であった3。ガス灯と電気照明との違いを、文明史家のW・シヴェルブシュは、「ガス灯が蝋燭や灯油ランプに対し一歩前進したのは、灯芯を使わない点にあったが、電灯は、焔を使わないことによって前進したのである。電灯はもはや酸素を必要とせず、しかも空気の化学的構成や温度を変えることがなかったので、ガス灯とはちがって、思いのままに明るくすることができた」4と指摘している。このように電気の光は、外部への影響を最小限にした光として登場したのであり、それは、光を生み出す主役が、開放型のガス灯から、密封した白熱電球へ移行することを意味した5。
1879年に、エジソンが発案した白熱電球は、ガス灯のような明るすぎない光を模倣することを目的にして、完全に安定した明るすぎない光を作り出した。明るさに関しては、ガス灯と白熱電球が生み出す光は似ていたのであるが、その光源を比較すると、ガス灯が光を「大きく広がった穏やかな表面」で生じさせているに対して、白熱電球は「まぶしいほど明るい極小の線条」から光を放つという大きな違いが存在した6。光源が、面から、線、それも「極小」のものであるから、ほとんど点に近いものに変化したのである。点のような光源から、空間を隈無く均等に照らす明るさをもった光が生み出された。ここから、電気の光の特徴として、光源の形状は、はっきりと確認することはできるが、そこから放射される光は、確かな形体を示さずに広がっていくということを挙げることができる。さらに、電気の光は、点灯と消灯を指一本で行えることが、ガス灯と違う点であると、シヴェルブシュは、次のように記している。
点灯も消灯もひねるだけですむという点で、電気スイッチは、ガス栓よりも一歩進んでいた。ガス灯は、まだ本格的に点火しなければならず --- 「開栓してマッチをつけなければ、あかりはともらない」 --- そのあとようやく蝋燭のようなくつろいだ焔が輝いた。それに対し電灯は、一瞬にして灯がついた。「帰宅してスイッチを入れていただければ、火やマッチがなくても、家中が明るくなります」というわけだ。このように新しい可能性を秘めたスイッチは、想像力をおおいに刺激した。7
このスイッチひとつで行える、電気の光のオン・オフの容易さは、今の私たちにとっては当たり前のことであるが、このことは光を操作することを含め、その後の私たちの生活に大きな影響を与えていると考えられる。なぜなら、キャロライン・マーヴィンが、電気の光の登場が人々に与えた影響を考察した著書の中で記しているように、電気のスイッチは電気技術の最先端の可能性を象徴しており、ボタンひとつで何でもできるという想像力を人々に与えたからである8。そして、電灯の登場とともに、私たちの想像力を刺激した「新しい可能性を秘めたスイッチ」は、後に、真空管やトランジスタというかたちで、電気回路の中に入り込み、ラジオやテレビ、コンピュータといった装置として、様々な機能を実現することにつながっていくことになる9。それは、様々な行為に固有なものであった身振りの多くが、スイッチのボタンを押すという単一の身振りに集約されていくプロセスでもあった。
線や点という確かな形状をもち、ちらつかず、スイッチで明滅を容易に行える電気の光が、私たちに与えた影響は大きなものであったのだが、ここでは「描く」という行為にしぼって、その影響の考察をすすめていく。電気の光が新しいものとして、人々の想像力を刺激していた頃に、この「描く」という観点から考察すべき電気の光の例として考えられるのが、サーチライトショーや、電光掲示板、ネオン管を用いた光の広告である。その中で、1920年代に人気を博したサーチライトショーについて、シヴェルブシュは著書の中で、「あなたはこれまでに、光が自由奔放に点滅する大規模なサーチライトショーを見たことがありますか。どこまでも伸びていく触手をもったサーチライトショーを」10という、モホリ=ナギが、F. カリヴォダに送った手紙を引用している。モホリ=ナギは、多くのメディアを用いて新たな表現を模索した芸術家であるが、その彼が、サーチライトショーに関して「どこまでも伸びていく触手」と評している。ナギは、どのような意味で、光に「触手」という表現を与えたのであろうか。このことを考えるために、ナギが、芸術と科学技術の関係をどのようにみていたのかを知る必要がある。
文化史的に、どの時代でも、能動的な力の同志的な結合が、芸術、科学、テクノロジーなどのあらゆる創造的分野に、突入する。一、二の分野における急速な作用が、この統一前線を、しばしば突撃隊のように推し進める。けれども、この状態は長くは続かず、別の大波が再びおしよせてくる。そして、同志的な結合は再統合されるのである。かくして、素材の克服や軽減による同じような表現の追求は、いろんな分野に見いだされてしかるべきだ。11
このような認識のもと、ナギは、電気の光という科学技術が創造した新しい光が、芸術という領域へ強い影響を与え、「絵具から光へ」12という変化が、絵画に引き起こされると考えたのである。そして、ナギは、電気が生み出す人工的な光に強い力があることを宣言する。
光は --- 時間・空間のエネルギー、およびその投影として --- 動的彫刻を押し進め、実質的なヴォリュームを得る上での新しい助成力である。
強力な人工光線を生みだす手段が公けにされて以来、光は、その正当な位置を占めるまでに到っていないとはいえ、芸術的創造には欠かせぬ基本的な要因の一つとなった。大都市の夜の生活では、さまざまに輝く電光広告なしにはもはや考えられないし、夜間飛行には、明るい航空標識がなくてはならないものである。反射鏡、広告ネオン、店頭に点滅する文字、回る彩色電球、幅がひろくて長い電光ニューズなどは、新しい表現分野の要素であり、早晩、この方面の創造的な芸術家が現われるだろう。13
ここで、ナギが挙げている、広告ネオンや、電光掲示板などは、19世紀に登場した電気の光が人々に与えた電気のもつ無限の可能性から生みだされた想像力の産物であったと、マーヴィンは指摘する14。その想像力の中で、サーチライトショーの強力な人工の光は「すばらしい光の鉛筆」と喩えられた。また、ネオン管も「光の鉛筆」として、何かを照明するのではなく、自らが色とりどりに輝くことによって、その活躍の場を広げていった15。ここには、電気の光が担った役割の変化をみることができると、シヴェルブシュは次の指摘をする。
初期の電光は、文字や絵の描かれた広告板を照明するだけだったが。そのうちに透明な平面を内側から輝かせるようになった。最後には光そのものが、書き手、描き手として登場した。ぎっしり並んだ何千という電球からなる文や画像が浮かび上がり、最初の静止した状態から、やがて動きはじめ、見えない手で電光文字を書き、電光の絵を描いた。16
そして、この電光の文字や絵は、「まるでネブカデネザルの王宮で、見えざる手がうしろの暗い壁に予言の文字を書いているかのようだ」17という魔術的な印象を当時の人々に与えていた。それゆえに、「電光の効果に慣れ親しんでいるとされる者でさえもが茫然自失してしまうほどに魅力的なものであった」18と、マーヴィンが記すほど、人々は電気の光が描く文字や絵の虜になっていた。このようなことから、ナギは、電気の光が、何かを照らすものではなく、自らを示す新しい描き手であることをいち早く感じとり、サーチライトの光に「触手」という表現を与えたと考えられる。そして、それを自らの作品に応用して、新たな芸術の形を示したのである。つまり、点や線という扱いやすい光源の形をもち、ちらつかない安定した光を放ち、スイッチひとつでその明滅を簡単に行える電気の光が示した可能性は、電気の光そのものが「見えない手」という新たな描き手によって描かれるという想像力を、当時の人々に与えるものであったということである。さらに、照明広告の主役が、白熱電球からネオン管に変わることで、「見えない手」は、文字や図形だけではなく「現実の都市から独立した空想都市」19をも作り出すようになっていった。この新たな都市は、スイッチひとつで、魔法のように現れては、消える空間に築かれていた。この想像力の中で、電気の光は、何かを照らすものから、現実から独立した空間を作り出す「見えない手」となると同時に、その空間を構成する素材にもなっていたといえる。これらのことから、「見えない手」という比喩は、人間以外の新たな「描き手」という科学技術の可能性としての意味と、電気の光が魔術的なものと結びつけられて考えられていたことを同時に示しているといえるのである。
さらに、「見えない手」によって描かれる電気の光は、マーヴィンが電灯から生じた光のパターンによって絵や文字を描くジャンルの後継者としてテレビを挙げていることから考えても、姿を変えながら、私たちに視覚的な興奮を与え続け、想像力を刺激し続けているといえる20。このことは、「見えない手」という名を与えられた初期の電気の光の衝撃が、私たちの「描く」という行為に影響を与え続けているひとつの例として考えられ、サザーランドのスケッチパッドと、フレヴィンの蛍光灯を用いた作品群もまた、「見えない手」という電気の光の可能性の領域内に位置する装置、作品として考える必要があることを示している。しかし、「見えない手」は、私たちの「描く」という行為にどのような影響を与えるものなのだろうか。また、この新たな描き手によって描かれる電気の光とはどんな性質をもつのであろうか。このことを明らかにするために、次に、ダン・フレヴィンの蛍光灯を用いた作品において、電気の光が果たしている役割を考察したい。
3.ダン・フレヴィン:「イメージ-オブジェクト」で「描く」
美術の世界では、モホリ=ナギを中心にし、テクノロジーを用いた動的な光の実験が行われ、1950年代には、家電機器に代表される新たな技術革新によって、ライト・アートは、ひとつのジャンルとして確立されていた21。しかし、それらの作品の多くが、テクノロジーと楽天的に結びついて、ただ光のイリュージョン効果を求めていたものにすぎなかった22。そんな中で、ダン・フレヴィンは、「電気の光は確かにもうひとつの道具だ」23と語り、蛍光灯が放つ光それ自体を目的とした作品を作り続けた。ここで「作品」という言葉を使ったが、フレヴィンは、自分が作っているものは作品ではなく、「提案」と呼ぶようになる24。この言葉の選択には、彼が、電気の光という新しい媒体から得られる経験を、見る人ともに考えていこうという姿勢が現れているのではないか。これらのことから、電気の光が示す可能性と、そこから生じる私たちの想像力を、「描く」という観点から考察するには、フレヴィンの「提案」からはじめるのが最適だといえるのである。
なぜ、1960年代に、フレヴィンは、蛍光灯を用いるようになるのであろうか。このことを考えるために、まず蛍光灯の出自をみてみたい。蛍光灯は、1930年代後半に現れた比較的新しい照明技術である。それは、ネオン管の光の質と、白熱電球のように工業的に大量生産することができる眼に優しく、扱いやすい照明として作り出されたものであり、照明技術史において、この発明はエジソン白熱電球につづく第二の革命と言われている。そして、50年代に蛍光灯は、工場やオフィス、デパートなどで用いられるようになり、均質でむらのない明るさを提供するという照明文化の革命を起こし、60年代に、そのむらのない光は、「人工の太陽光」と名づけられるともに、「冷たい光」とも呼ばれ、白熱電球の「暖かい光」とは区別されるようになった25。シヴェルブシュは、上記のように蛍光灯の歴史をまとめ、最後に、その普及によって、「『暖かい』『冷たい』というふたつの価値を有する、光に対する二重の識別体系ができあがり、それとともに光に対する新しい価値判断と感受性が生まれた」26と指摘している。つまり、蛍光灯は照明技術の進展を示すと共に、そこから放たれる光が、それまでの白熱電球とはまったく異なる光に対する価値観を生み出すほどの強烈な印象を人々に与え、人々の電気への意識を成熟させたといえる。そして、もうひとつ指摘したいのが、蛍光灯の登場によって、それまで屋外の広告で、無数の文字や絵を描いてきたネオン管と同じ質を持った光が、照明器具として室内に入ってきたということである。1933年生まれのフレヴィンは、この電気の光への意識が高まっていた照明文化の革命期に青年期を過ごしてきたことになる。そこから、蛍光灯が示した新たな電気の光の可能性を感じとり、それを「描く」という視点から提案するようになったと考えられるのである。
次に、この「描く」という観点から、フレヴィンが行ったことを考察していきたい。『ダン・フレヴィン:新しい光』というフレヴィンに関する論文集を編集した、ジェフリー・ヴァイスは、フレヴィンの蛍光灯が放つ光を、マルセル・デュシャンのレディメイドの考えから考察している27。そこで、ヴァイスが参照しているのが、ティエリー・ド・デューヴの「絵画的唯名論」という戦略に基づいたレディメイドという論考である。ド・デューヴは、デュシャンの1960年代初めの発言から、デュシャンが、「既製品の絵の具チューブは可能な絵」28と考えていたとする。例えば、1963年に、デュシャンは次のように語っている。
どうして「つくる」なのでしょうか。「つくる」とは何でしょうか。何かをつくること、それは青のチューブ絵の具を、赤のチューブ絵の具を選ぶこと、パレットに少しそれらを載せること、そして相も変わらず一定量の青を、一定量の赤を選ぶこと、そして相も変わらず場所を選んで、画布の上に色を載せることです。それは相も変わらず選ぶことなのです。それで、選ぶために、絵の具を使うことができますし、絵筆を使うことができます。しかし、既成品も使うことができます。既製品は、機械的にせよ他人の手によってにせよ、こう言ってよければですが、すでにつくられているものでして、それを自分のものにできます。選んだのはあなたなのですから。選択が絵画においては主要なことですし、普通でさえあります。29
この発言で、デュシャンは、「選択」という行為自体が、「描く」ことだと明確に述べている。「相も変わらず選ぶこと」こそが、レディメイドであり、デュシャンは、絵の具の代わりに、便器を、瓶乾燥器を選んだということにすぎないのであって、それらを「絵画」という名で呼ぶならば、それらは絵画となるというのが、ド・デューヴの考えである。そこから、ヴァイスは、フレヴィンが、なぜ蛍光灯を選んだかと問うのではなく、なぜ絵の具を選ぶ代わりに、蛍光灯を選んだのかということを考察する。そのために、フレヴィンが注目したフランク・ステラのアルミニウム塗料を用いた作品《Marquis de Portago (Version Ⅰ)》(1960)において、アルミニウム塗料の作品は、自然の空間をその中に示していないという、ステラの言葉に注目する。ヴァイスは、このステラの言葉を、「自然主義の痕跡を排除する、独自の光を放つメタリックペイント」30と言い換える。なぜなら、アルミニウム塗料で塗られた作品は、シエナやアンバーのように自然に由来する絵の具とは異なるものであり、鑑賞者がそこに見るのは「技術的に生みだされた脱自然的・非物質的な空間」31だからである。たしかに、アルミニウム塗料は、従来の絵の具とは異なる工業的な光を放つものであるが、それは依然として光を反射するという点で、それまでの絵の具と異なるところはない。フレヴィンは、この絵画の表面に蛍光灯という色とりどりの安定した光を放つ工業製品を持ち出す。このフレヴィンの選択は、絵の具の代わりに。電気によって作り出される人工的な光を選択したと同時に、従来の絵画が色を示すために必要とした自然の光を放棄したことも意味している。なぜなら、蛍光灯は光を発するのであり、そして、その光自体が色だからである。つまり、フレヴィンは、ガスのように明確な形体をもたない色-光を放つ蛍光灯という新しい道具を選択することによって、「絵画のもうひとつの状態」32を創造したと、ヴァイスは考える。
このフレヴィンの蛍光灯の作品群は、既製品の選択という点で、デュシャンにつながるものであると同時に、モホリ=ナギの「絵具から光へ」という絵画の未来への予言を実現したことなる。しかし、レディメイドという観点からすれば、このフレヴィンの選択は少し逸脱した部分をもっていると、ヴァイスは指摘する33。なぜなら、レディメイドは、その道具の機能性を奪い取ることで、作品として成立するのであるが、フレヴィンの蛍光灯は、「光る」という機能を使わなければ作品として成立しないからである。スイッチを切られたフレヴィンの作品は、電気が点いていないただの蛍光灯になってしまう。このただの蛍光灯では、フレヴィンの作品は成立しない。彼が提案しているのは、あくまでも電気の光が作り出す脱自然的・非物質的な空間なのであって、蛍光灯ではない。このように、フレヴィンの作品は、蛍光灯の「光る」という機能によって成立しているので、この光を放つという観点からも、フレヴィンの作品は考えなくてはならない。
美術評論家で、画家でもあるジェレミー・ギルバート-ロルフは、蛍光灯が放つ光を見るということから、フレヴィンの作品を考察している34。蛍光灯に電流が流れると蛍光管フィラメントから電子が飛び出し、それが内部に封入されている気体状の水銀と衝突すると、紫外線が発せられる。そして、その紫外線が蛍光ガラス管の内側に塗布された発光体に当たることで、蛍光灯は発光する。この発光のプロセスは、私たちが知覚できないスピードで起きている。その中で、私たちが知覚することのできない電気のスピードが、ガス状の水銀と衝突することで遅くなり発光するという原理が示している「見えない力が、触知できる力によって、見えるものになる」という点が、フレヴィンと印象派、そして、現在のテレビやコンピュータ・ディスプレイが示す画像を結びつけるとロルフは指摘する35。
工業化によって、より鮮やかな絵の具の生産が可能になるにつれて、印象派は、太陽の光のもとでの事物の鮮やかさそのものを描くということを目的とした。それは、変化し続ける太陽の光を、自らの筆で捕まえ、可視化する試みであった。そのために、印象派の画家たちは、素早いブラシストロークで描くことを行い、次第に、そのブラシストロークは画家独自の身振りを失わせ、機械的なものとなっていった。しかし、そのような印象派の「身振りなき身振り」36が生み出した絵画も、あくまでも絵の具で描かれたものにすぎず、太陽の光をそのまま再現するような明るさを得ることはできなかった。それゆえに、私たちの眼は、そのブラシストロークの一筆一筆を詳細に眺めることができる。それに対して、蛍光灯を用いたフレヴィンの作品は、「人工の太陽光」と呼ばれるような電気が生み出す鮮やかな明るい光を使用しているため、私たちが長く見つめることを難しくしている。その理由は、私たちの眼が電気のスピードに追いつくことができないからである。このようなことから、フレヴィンの作品は、電気のスピードによって作り出される鮮やかな光によって、全体をひとつのオブジェクトとしてみることが難しいと、ロルフは指摘する37。そして、フレヴィンの提案する電気の光とは、「何も加えもしないが、スイッチを切るとそこには何もなかったことが明らかになる」38ものだとする。つまり、フレヴィンは、印象派の画家を筆頭として、多くの画家が目指した太陽の光を獲得するために必要であったキャンバスに筆跡を残すための身振りを、蛍光灯が放つ光にすべて託すことによって、新しい絵画を提案したと考えることができる。それは、電気の光を「見えない手」として用いることと、素材として使うことを意味した。よって、光が消えてしまえば、そこには、フレヴィンが行った「描く」という行為を示すものは何もなく、光が消えた蛍光灯がただあるだけである。
ヴァイスとロルフの考察から、フレヴィンの蛍光灯の作品における、電気の光の意味をみてきたのであるが、それは、フレヴィンが、蛍光灯という電気の光を選択することによって、絵の具を放棄するとともに、絵画を描くための身振りも放棄することを選択したということであった。なぜなら、ここでフレヴィンが「描く」ために行っているのは、蛍光灯を選び、それを「照らす」ための位置から「描く」ための位置へ移動し、点灯するためにスイッチを押すということだからである。このことは、フレヴィンが、絵画を描くという行為を、デュシャンが指摘したように「選択」することにまで還元したことを意味するが、彼には、蛍光灯を光らせるために、スイッチを押すという身振りが必要であった。ここには、絵の具を「塗る」といった身振りが存在しない。その身振りは、ヴァイスとロルフが考察しているように、フレヴィンがスイッチを押した後、「見えない手」が行っているからである。その意味では、フレヴィンは、夜の街に輝く光の広告を、アートワールドに持ち込んだに過ぎないと言うことができるのかもしれない。しかし、ホワイトスペースという抽象的な空間に、蛍光灯から放たれる電気の光そのものを展示することで、それまで見過ごされがちであった、描かれる素材としての電気の光の本質が見えてきたのである。
はじめて蛍光灯を単独で用いた作品《1963年5月25日の対角線》について、フレヴィンは「軽快でありながら、冷酷なガス状のイメージが、その輝きによって、蛍光灯の物質的実体を、ほとんど見えないものにしていた」39として、光によって物質や空間が破壊されると、1964年の講演で述べている。ここで、フレヴィンは、蛍光灯の光が、実体を壊してしまうような力を持っており、それを「イメージ」として認識している。しかし、1966年にアートフォーラム誌に寄稿した「some remarks…」の中で、物質としての蛍光灯は、その内部の構造から光を発しているが、決して光の中で融けてなくならず、確固とした輪郭を示すものであるから、それは「オブジェクト」であると、彼は書くのである40。しかし、その直後、括弧でくくりながら、「私は今、蛍光灯が示す現実を強調したのであるが、私は未だに、自分のメディアの使用法を一番よく表しているのは、『イメージ-オブジェクト』という複合語であると思う」41とフレヴィンは続ける。ここで問題にしたいのは、フレヴィンが蛍光灯の光を探求して得た複合語の語順が、なぜ「オブジェクト-イメージ」ではなく、「イメージ-オブジェクト」なのかということである。なぜなら、この語順に、フレヴィンが電気の光を「ひとつの道具」としてみていた理由があると思われるからである。電気の光には、光に形体を与えようとする力に抵抗し、空間に拡散して、オブジェクトとしての光を溶かすようなイメージとしての力があることを、フレヴィンは熟知していた。そして、この実体を破壊するような力は、光の広告において、魔法のように機能し、世界から現実性を失わさせ、私たちを虜にしてきたものであった。しかし、フレヴィンは作品のスケッチで、蛍光灯を鉛筆の細い線で描く。これは、オブジェクトとして光を認識した結果である。フレヴィンにとって光とは、どんなにイメージとしての力によって侵されようとも、あくまでもある形体をもったオブジェクトなのである。この光への認識から、フレヴィンは、「イメージ-オブジェクト」という語順で複合語を作ったと考えられる。つまり、電気の光が持っている、オブジェクトを溶かすように拡散するイメージとしての力を、オブジェクトとしてまとまる力で制御するという認識に基づいて、フレヴィンは、紙に定規で直線を描くように、光を空間に自由に配置していったといえる42。それゆえに、フレヴィンが「イメージ-オブジェクト」として蛍光灯が放つ電気の光を使う時、私たちは、光輝いているイメージを見ると同時に、その輝きの中で確かな形体をもったオブジェクトも見ているのである。ここには、夜のきらびやかな光の広告が持っていた、私たちの空想をかきたてる要素はない。ここにあるのは、ダン・フレヴィンという個人が、「イメージ-オブジェクト」を用いて「描く」という行為を行ったということだけである。それは、フレヴィンが、描くための素材として電気の光を考察し、それを「イメージ-オブジェクト」として利用することによって、電気の光という「見えない手」を自分の道具として用いて「描く」ことを行い、照明広告が示していた魔術的要素を出来るかぎり抑えたものと考えられるのである。
つまり、「見えない手」が登場した後の「描く」という行為を考察した結果、フレヴィンが行ったことは、「見えない手」に従来の意味での描くことを委ねながら、電気の光が「イメージ-オブジェクト」として機能するように蛍光灯を選択し、それを移動させ、点灯するという身振りであった。それは、「見えない手」の魔術的要素を抑え、脱自然的・非物質的な電気の光そのものを示す絵画を「描く」ことになった。以上の考察から、「見えない手」が描いた素材としての電気の光とは、フレヴィンが的確に「イメージ-オブジェクト」と名付けたように、それまで確固とした形体を持ち得なかった光に明確な形体を与えたものであると同時に、その形態から逃れようとする力を持つものであると考えられる。また、「イメージ-オブジェクト」という複合語は、1900年代初頭から人々を魅了する「見えない手」によって描かれる電気の光の性質を「描く」という観点から考察して、電気の光が示してきた魔術的な力を抑えつけ、自らの手で「描く」ことを提案できる「創造的な芸術家」が1963年に現れたことも意味するのである。次に、フレヴィンが蛍光灯を用いて提案した、電気の光を「イメージ-オブジェクト」として描くという可能性に対して、コンピュータを用いてアプローチをしたサザーランドのスケッチパッドを考察したい。
4.スケッチパッド:光の図形を点の移動によって「描く」装置
マサチューセッツ工科大学のリンカーン研究所では、1950年代から、電気の光の明滅の容易さから派生したスイッチによる光の制御の可能性を、CRT とコンピュータとを結びつけることで追求していた。その過程で、CRT の光の点を捉え、その光を電気信号に変換して、コンピュータに入力信号して送り返す装置として、スケッチパッドで用いられるライトペンの原型であるライトガンが開発されるとともに、それまで回路を構成した真空管をトランジスタに置きかえることによって、高速で信頼性が高く、しかも低電力で動く小型のコンピュータとして、TX-0 と TX-2 が実験的に作られていた。そして、かなり原始的ではあるが、ドローイング・システムも開発されていた43。そのような状況の中で、1963年に、アイヴァン・サザーランドがスケッチパッドを開発する。この装置は、紙に描くという行為があまりに強い影響を私たちに与えているため、コンピュータを用いることで、その影響から逃れて「描く」という行為の可能性を探ることを目的としていた44。この装置が「描く」という行為に与えた影響を明確にするために、まずは、スケッチパッドを製図用具の歴史に位置づけた展覧会「想像力の道具:18世紀から現在までの製図用具と技術」を参照してみたい。
「想像力の道具」展は、2005年にアメリカの国際建築博物館で開催され、そのカタログが2007年に発刊された。その冒頭に、15世紀から現在までの、製図用具に関する出来事や発明の年表があり、そこに「1963年:アイヴァン・サザーランドがスケッチパッドを創りだす」45と記されている。今から考えれば、この出来事は、製図という作業に必要不可欠であった紙と鉛筆というものをお払い箱にして、新たにコンピュータを導入することになったのだが、サザーランドは、スケッチパッドが明らかにしたことを、次のように記している。
コンピュータを用いて描くことが、紙に描くこととは全く異なる性質を持っていることが明らかになった。それは、描く図形の正確さや、描くことの容易さ、描いたものを消すときの速さだけでなく、描いたものを移動するときに、それを消す必要がないということが一番の理由である。46
展覧会を企画した、スーザン C. ピエドモント-パラディーノは、スケッチパッドが、決して優れた製図工よりも速く描けるわけではなかったことを指摘するが、描いた図形を消すことなく動かせるという点においては、サザーランドの言葉に同意している47。確かに、私たちは今でも、紙の上に描いたものを、その紙の上の他の場所に移そうと思ったら、一度描いたものを消して、移したい場所に描き直さなければならない。このことに関係して、コンピュータ・ドローイング・システムでは、紙に鉛筆の炭素の軌跡を残すという従来の意味での描くという行為は行われず、点の移動が行われるのみだということを理解するのは難しいことだったと、サザーランドは書いている48。サザーランドが理解するのが難しかったとするほど、スケッチパッドは、従来の描くということとは異なる方法で、「描く」ということを行っている。それゆえに、一度描いた図形を消すことなく動かせるだけでなく、スケッチパッドでは表示されている図形のすべてが、点の移動によって構成されていると見なすことが必要となる。そして、その点の移動は。電気の光が登場した際に、当時の人々が思い描いた、ボタンひとつでなんでも行えるという想像力と重なり合うように、すべてスイッチを押すだけで行うことができるようになっている。スケッチパッドは、どのようにして、スイッチを押すだけで、自由に点の移動させることを実現したのであろうか。
先に簡単にふれたが、1960年代に、スケッチパッドを筆頭にして、多くの Computer-aided design (CAD) システムが生み出されることになり、デザインの現場に、コンピュータが導入され始めた。このコンピュータの導入は、デザインの世界から、コンパスや三角定規といった長い歴史を持つ製図道具を片隅に追いやっていくことになった。しかし、もともと製図道具自体も、フリーハンドで描くという行為をデザインの世界から追い出したものであった。「想像力の道具」のカタログの「結論:即興、道具、アルゴリズム」と題した文章の中で、W. J. ミッチェルは、「フリーハンドで描くことは、パフォーマンス」であり、その技法はパフォーマーの技量に依存するのに対して、製図道具を用いて描くことは「規律正しくモジュール化された複製可能な行為」であり、より複雑な図形を描くことを可能にしたとしている49。そして、製図道具によって記された痕跡は、「ひとりの芸術家の手の動きの記録ではなく、時間を超越したプラトン的な抽象を表しているシンボルとして読まれるものだ」50と述べている。つまり、製図用具は、そのやり方の順序に従えば、誰もが自らの手で、特定の図形を正確に描けるようにしたひとつのアルゴリズムが、具体的な道具という形になったものなのである。そして、1960年代に、コンピュータ・グラフィックスが登場し、すべての図形が「空間や表面を横切る点の軌跡」として描かれるようになり、このアルゴリズムが一変することになる。この変化によって、多くの製図用具は、点の位置を算出するアルゴリズムに置き換わり、プログラムとしてコンピュータに導入され、人の代わりに、コンピュータが図形を描くようになっていったと、ミッチェルは指摘する51。ここから言えることは、製図という分野で「描く」ために必要であった身振りが、道具や装置の中に吸収されていったということである。そのプロセスにおいて、スケッチパッドは、無数の点の位置を計算することで、図形を描くというアルゴリズムに基づいた「描く」という行為を、最も早い段階で実現し、ユーザに提供したものと考えることができる。だから、スケッチパッドでは、従来の意味での描くということは行われず、点の移動によって「描く」ということが行われるのであり、スイッチを押すことは、製図道具が置き換わったプログラムを点の移動に適用することを意味した。それゆえに、スイッチを押すだけで、あたかも製図道具を用いて描くように、点が移動していくのである。
その際に、点の移動を表示する装置として採用されたのが、電気の光の無数の点の明滅を瞬時に行える CRT であった。このコンピュータと CRT との出会いは、正確さを求めて、最終的に、方程式の解が示す無数の点の集合となった製図における描写の身振りと、光を描くことを求めた画家が辿った身振りとが、コンピュータが示した新たな可能性のもとで交差したものと考えられる。光を求めた画家の系譜において、フレヴィンが、自然の光の代わりに、蛍光灯という人工的な光を「イメージ-オブジェクト」として扱うことで、電気の光を用いて自由に描いたように、サザーランドをはじめとする工学者たちは、無数の電気の光の明滅を瞬時に行える CRT を、無数の点の位置を瞬時に計算することができるコンピュータで制御することで、電気の光の点を瞬時に移動させ、正確な図形を思い通りに「描く」ことができる装置を開発したと考えることができる。このとき、サザーランドもまた、フレヴィンと同じように、電気の光を点という形体をもった「イメージ-オブジェクト」としてみていたのではないだろうか。
スケッチパッドが利用した無数の電気の光の点の明滅によって、図形や文字を描くという構造は、初期の電気の光と組み合わせた際に、既に電気の光に慣れていた人々たちにも「見えない手」という比喩を思わせるほど、電気の光の利用に強い影響を与えたものであった。このときに、電気の光と組み合わされたのは、網目法という印刷技術の応用であり、この技法が、私たちに与えている影響に関しては、ウイリアム・アイヴァンスや吉積健が、既に取り上げている51。しかし、ここで着目したいのは、網目法そのものではなく、網目法と電気の光との組合せである。網目法を用いた電光広告において、文字や図形を生み出すのは数千、数万からなる電球の集まりにすぎないのだが、自らの形状から逃れようとする性質をもった電気の光は、そのひとつひとつの電球の存在を隠すように作用するので、そこには、切れ目なくつながった線で描かれた光の文字や、光の図形が何もないところから、魔法によって浮かびかがってきたかのように見える。しかし、実際には、文字や図形を個別に識別することは難しかった。それは、「個別的な知覚をことごとく溺死させる光の氾濫」53をもたらすほどに、まぶしかったのである。ここでは、電気の光が持つイメージとしての力をコントロールすることができずに、光の図形を構成するための電球の点というオブジェクトそのものがなくなっている。このイメージの力は、当時の人々が、まぶしさの中で目眩をおこしながらも、そこに文字や図形を描く「見えない手」を想像してしまうほどに強いものであり、そのまぶしさが、電気の光と魔術的なものを結びつけたひとつの要因であったといえる。それゆえに、無数の点の網目と電気の光との組合せは、「見えない手」という想像をかき立てるほど、私たちを魅了するものとなり、「見えない手」が光の図形の「描き手」となったと考えられるのである54。
しかし、スケッチパッドは、電光広告と同じ原理で機能する CRT ディスプレイを用いながらも、「見えない手」ではなく、私たちの手で電気の光を「描く」ことを目的とした装置である。そのために、サザーランドをはじめとするリンカーン研究所の工学者たちは、CRT の無数の点を積極的に利用した。なぜなら、後にスケッチパッドと結びつくことになる、リンカーン研究所における CRT の出力装置としての利用やライトペンの開発は、網目の点をコンピュータの演算の中に組み込むことを前提にしていたからである55。それは、コンピュータが示す無数の点の位置を計算することができるという能力を活かし、光の図形を、点という形体を示す電気の光が無数に集まったものとして制御することを目指したものであった。つまり、スケッチパッドが可能にしたことは、フレヴィンと同じように、電気の光を「イメージ-オブジェクト」として捉え、それをコンピュータで制御することで「見えない手」が持つ魔術的要素を極力抑えつけることであった。その結果、スケッチパッドが示す電気の光は、「イメージ-オブジェクト」のオブジェクトの部分を最大限利用して、容易に光の点を選択、移動できるものとなり、私たちが光の図形の「描き手」となることができたのである。この時に、サザーランドが手放したものが、鉛筆で線を思い通りに「引く」といったような、パフォーマンス的要素を持った従来の描くという考えであり、その代わりとして、点の移動によって「描く」ことを行うという考えをスケッチパッドで具体化したのである。それは、無数の電気の光点で構成される脱自然的・非物質的な平面に、文字や絵を「描く」ための新しい身振りを求めた。それが、CRT 上に示されている電気の光の点を、ライトペンで選択して、移動させ、「描く」ボタンを押すということだったといえる。
サザーランドは、点の集合として図形を描くコンピュータと、CRT の無数の光点とを結びつけ、電気の光を「イメージ-オブジェクト」として正確に制御する術を生み出した。この電気の光と、コンピュータとを結びつけることによって、スケッチパッドは、「見えない手」ではなく、私たちの手が、電気の光を選択し、移動させて、光の図形を正確に「描く」ということを実現したのである。その際に、私たちの身振りは、描くという行為が従来示してきた絵の具を「塗る」や直線を「引く」といったものではなく、「選択・移動・スイッチを押す」というものになっている。このスケッチパッドにおける「描く」ための一連の身振りは、フレヴィンと同様に、CRT とコンピュータによって制御された電気の光という「見えない手」に、従来の描くという行為を委ねた結果として生じた身振りなのである。それは、無数の点を瞬時に計算して制御するというコンピュータの能力を最大限利用して「描く」ために、私たちのコンピュータへの干渉を最小化したものと考えることができる。そして、この身振りの変化や、描いたものを消すことなく移動できるといったスケッチパッドが示す紙に描くことから離れた現象を、私たちが受け入れることができたのは、それらが電気の光の可能性から生じた「ボタンひとつで何でもできる」という私たちの想像の範囲内のことであったからだと考えることができる。このことから、スケッチパッドは、コンピュータを電気の光と結びつけることで、「見えない手」の魔術的要素を抑え込んだのだが、今度は、ボタンひとつでどんな光の図形も自分の手で自由に「描く」ことができるということを、私たちに想像させる装置になっている。この新たな想像力は、電気の光単独のものではなく、コンピュータとの組み合わせによって生じている。ここから、コンピュータの性能が充分に高まった1960年代には、電気の光それ自体が、人々の想像をかき立てる時代は終わり、コンピュータの可能性の中で、電気の光が使用されるということがはじまったといえる。それは、電気の光が持っていた魔術的要素を、コンピュータが引き受けたことを示しているのである。
5.終わりに
本論考では、アイヴァン・サザーランドのスケッチパッドと、ダン・フレヴィンの蛍光灯の作品を手がかりにして、1960年代に起きた「描く」ことの変容を電気の光との関係から論じてきた。1963年、フレヴィンは、絵の具の制約から逃れるために、蛍光灯を選択し、サザーランドは、紙の制約から逃れるために、スケッチパッドを開発した。その過程において、フレヴィンは電気の光がもつ性質を考察することで、サザーランドはコンピュータの示した可能性の中で、電気の光という「見えない手」が持つ魔術的要素を押さえ込むことに成功した。それは、電気の光を「イメージ-オブジェクト」と考えることで、電気の光を描く主体の地位を、「見えない手」から、私たち自身に取り返すことであった。その結果、1960年代に、「描く」という行為に、「選択・移動・スイッチを押す」という新しい身振りが選択肢として加わったのである。そして、この新たに加わった身振りは、19世紀の終わりから、20世紀初頭において、私たちを魅了した電気の光の可能性から生じた「ボタンひとつで何でもできる」という私たちの想像を「描く」という行為において実現したものといえるのである。
註
1 水野勝仁「マジック・メモとスケッチパッドにおけるイメージと痕跡の関係」『映像学』第76号、2006年。
2 Peter Weibel, “The development of light art” in Light art from artificial light, Peter Weibel and Gregor Jansen, ed. (Ostfildern: Hatje Cantz, 2006), p.116.
3 W. シヴェルブシュ『闇をひらく光:19世紀における照明の歴史』小川さくえ訳、法政大学出版局、1988年、43-56頁。
4 同上書、56頁。
5 同上書、56頁。
6 同上書、66頁。
7 同上書、73-74頁。
8 キャロリン・マーヴィン『古いメディアが新しかった時:19世紀末社会と電気テクノロジー』吉見俊哉・水越伸・伊藤昌亮訳、新曜社、2003年、245頁。
9 同上書、378-379頁。
10 W. シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥルギー』小川さくえ訳、法政大学出版局、1997年、176頁。
11 L. モホリ=ナギ『ザ ニュー ヴィジョン:ある芸術家の要約』大森忠行訳、ダヴィッド社、1967年、105頁。
12 同上書、105頁。
13 同上書、108-109頁。
14 マーヴィン、前掲書、316-317頁。
15 同上書、372頁。
16 シヴェルブシュ、前掲書(1997)、118頁。
17 シヴェルブシュ、前掲書(1997)、120頁。
18 マーヴィン、前掲書、363頁。
19 シヴェルブシュ、前掲書(1997)、126頁。
20 マーヴィン、前掲書、378-379頁。
21 三井秀樹『テクノロジー・アート:20世紀芸術論』青土社、1994年、139-140頁。
22 藤枝晃雄「フレイヴィンの光」ダン・フレイヴィン展、鎌倉画廊、1987年、リーフレット、頁番号なし。
23 Dan Flavin, “some remarks… : … excerpts from a spleenish journal.,” Artforum (December 1966) , p.27.
24 Dan Flavin, “some other comments… : more pages from a spleenish journal,” Artforum (December 1967) , p.21.
25 シヴェルブシュ、前掲書(1997)、219頁。
26 シヴェルブシュ、前掲書(1997)、219頁。
27 Jeffrey Weiss, “Blunt in bright repose” in Dan Flavin: New light, Jeffrey Weiss ed. (New Haven & London: Yale university press, 2006), pp.49-81.
28 ティエリー・ド・デューヴ『マルセル・デュシャン:絵画唯名論をめぐって 』鎌田博夫訳、法政大学出版局、2001年、262頁。
29 G・シャルボニエ『デュシャンとの対話』北山研二、みすず書房、1997年、68頁。
30 Weiss, p.58.
31 Ibid., p.59.
32 Ibid., p.78.
33 Ibid., p.71.
34 Jeremy Gilbert-Rolf, “Space and speed in Flavin: Minimalism, Pop Art and Mondrian” in Dan Flavin: New light, Jeffrey Weiss ed. (New Haven & London: Yale university press, 2006), pp.82-107.
35 Rolf, p.83.
36 Ibid., p.87.
37 Ibid., p.88.
38 Ibid., p. 103.
39 Dan Flavin, “… in daylight or cool white.: an autobiographical sketch,” Artforum (December 1965) , p.24.
40 Flavin, some remarks… , p. 28.
41 Ibid., p.28.
42 このことから、ロザリンド・クラウスは、フレヴィンの作品のことを、グラフィックスと呼んでいる。Rosalind Krauss, “New York,” Artforum (January 1969), p.54.
43 J. Hurst, M.S. Mahoney, N.H. Taylor, D.T. Ross & R.M. Fano, “Retrospectives I: The Early Years in Computer Graphics at MIT, Lincoln Lab, and Harvard,” ACM SIGGRAPH'89 Panel Proceedings, 1989, pp.19-38.
J. Hurst, M.S. Mahoney, J.T. Gilmore, L.G. Roberts & R. Forrest, “Retrospectives II: The Early Years in Computer Graphics at MIT, Lincoln Lab, and Harvard,” ACM SIGGRAPH'89 Panel Proceedings, 1989, pp.39-73.
44 Ivan E. Sutherland, Sketchpad: A man-machine graphical communication system, PhD Thesis, MIT, pp.8-9.
45 Tools of the imagination: Drawing tools and technologies from the eighteenth century to the present, Susan C. Piedmont-Palladino ed. (New York: Princeton Architectural press, 2007), p.5.
46 Sutherland, Sketchpad, p.8.
47 Palladino, p.97.
48 Sutherland, Sketchpad, p.102.
49 W. J. Mitchell, “Conclusion: Improvisations, Instruments and Algorithms” in Tools of the imagination: Drawing tools and technologies from the eighteenth century to the present, Susan C. Piedmont-Palladino ed. (New York: Princeton Architectural press, 2007), p.117.
50 W. J. Mitchell, p. 117.
51 Ibid., p.117-118.
52 ウイリアム・アイヴァンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』白石和也訳、晶文社、1984 142頁、190-191頁。
吉積健『メディア時代の芸術:芸術と日常のはざま』勁草書房、1992年、149-183頁 。
53 シヴェルブシュ、前掲書(1997)、120頁。
54 現代において、このイメージとしての光を最大限利用しているのが、テレビだといえる。なぜなら、その網目構造を意識させない方向で開発が進められたテレビの映像は、自らを構成している無数の点というオブジェクトを意識させずに、私たちに向けて、光を放射し続けているからである。この意味でも、テレビは、電灯の真正の後継者として、光の氾濫によって知覚を麻痺させ、私たちに大きな幻想を与え続けているといえる。
55 Sutherland, Sketchpad, p.70.
Ivan E. Sutherland, “Computer inputs and outputs”, Scientific American (September 1966), p. 94-95.