電子的視覚表示装置が放つ明るすぎない光

はじめに
私たちを取り巻いている、電子的視覚表示装置は、「遠くを見る」という意味をもつテレビ、「警告する」という意味をもつモニター、「包みを解く」という意味のディスプレイなどと、その用途によって様々な名前で呼ばれているが、この装置が示している光の像の意味は、真剣に考察されたことがなかったのではないだろうか。それは、電子的視覚表示装置を、劣った映画装置だと見なしたり、「遠くを見る」という機能のみを取り上げてきたりしたことが大きな原因であったと思われる。しかし、電子的視覚表示装置は、コンピュータをはじめとする、様々な電子機器と結びつくことで、従来の考察では説明することができない意味を持ちはじめている。よって、本論考の目的は、電子的視覚表示装置が、自ら光を放つことに着目し、その性質を「鏡」というメタファーを軸に考察することで、この装置が持つ従来の視覚表示装置とは異なる光に関する原理を示すことである。

1.「ヴァーチャル・ウィンドウ」による「鏡」の隠蔽 
アン・フリードバーグは、その著書『ヴァーチャル・ウィンドウ』において、遠近法が絵画を「ヴァーチャル・ウィンドウ」にしたとする。ここで言われている「ヴァーチャル・ウィンドウ」とはひとつの変換を示すメタファーであって、それは3次元のものを2次元という平面に変換する装置として機能するものである。そして、フリードバーグはこの「ヴァーチャル・ウィンドウ」が、アルベルティの遠近法に始まり、写真、映画を経て、コンピュータ・ディスプレイに展開する「マルチ・ウィンドウ」へと繋がっているとしている1。「ヴァーチャル・ウィンドウ」という概念を軸とするフリードバーグの論考は、私たちの生活のなかに、とても自然に入り込んできた「複数の窓[ウィンドウズ]」と呼ばれる、コンピュータの環境を視覚の歴史的な流れに位置づけることに成功している。

しかし、フリードバーグは、その一貫性を保つために、一連の視覚表示装置を説明する際、「鏡」というもうひとつの3次元から2次元へ変換する機能を示すメタファーを除いている。彼女は、絵画におけるアルベルティの「窓」とブルネレスキの「鏡」とを比較を行い、そして、ラカンをはじめとしたスクリーンを「鏡」とみなす映画理論への言及を行う2。その中で、「窓」は「直接性を生み出すもの、真実を告げる、媒介されないヴィジョン」であり、「鏡」は「代替性を生み出すもの、人を欺きやすく、幻想的なヴィジョン」であって、それらは非常に異なった世界の認識をもたらすと彼女は指摘している3。同時に、これらのメタファーは、常に置き換えられやすい関係を持つものなので、重要なのは見る人と枠づけられた眺めとの関係を強調することであると述べている4。このような「窓」と「鏡」に関する考察を経て、フリードバーグは「窓」というメタファーを採用し、「ヴァーチャル・ウィンドウ」という概念が見ることに関する新しい論理を切り開くとする。このことから、フリードバーグにとって絵画からはじまり、コンピュータ・ディスプレイに至る様々な視覚的表示は枠づけることが重要であり、この機能において「窓」が「鏡」を斥ける。そして、この枠づけることは、真実を告げることと深く結びついていると考えられているのであるが、この結びつきの前提は何なのであろうか。

フリードバーグは、アルベルティにとっての窓とは光と換気を部屋にもたらすもので、それは、透明ではなく不透明なものであったとし、窓は世界をそのままの形で見せるものではなかったということを指摘する5。つまり、窓はそこを通ってくる光と空気によって、外の世界を感じさせるものであり、フリードバーグは外の世界との直接的な結びつきというよりも、部屋の外からやってくる光との結びつきが強いものであったということを強調しているのである。そして、その窓を通ってくる光にキャンバスをかざし、そこに映しだされたものを描くことが遠近法のはじまりであり、それは窓からの光が壁面に枠をつくり出し、そこに仮想的な2次元の像をつくり出した。この現象は、カメラ・オブスキュラをはじめとする、多くの娯楽装置と結びつき、その延長線上に、写真という、光で描く装置があり、その写真に光を投射することで、動きを再現した映画が存在している。ここでは、光が枠を形作りそこに像を映しだすことが起こっている。

この枠と像を生み出す光は、どこかの窓から暗い部屋の中にさし込んできている。ここには、窓を介して充満した光の世界と暗い部屋との対立があるのだが、光は常に「二元論的な対抗力としての闇」とともにあったと、ハンス・ブルーメンベルクは書いている6。同時に、「光は押し入るものであり、その充溢において圧倒的な、見渡しがたい明るさを生み、この明るさとともに真なるものが「あらわれ出る」7」ほど、光の力は強大すぎるものであって、ひとたび光が現れたならば、闇はもはや存在しえないものとなってしまう。この光の力によって、世界は隅々まで照らしだされて事物の可視性が現れていると考えられていた。けれども、この光の性質が啓蒙主義の時代に変化していく。ベーコンとデカルトにとって、「所与のものはもはや光の中にあるのではなく、ある特定の角度から照明される8」ものであり、ここで、光は事物を照明するためという役目を帯び、ある一点からの照射ということの意味が考えられる。そうして、光に「何かのため」という合目的的な技術的要素が入ってくる。この光の変化は、「描かれるべきもののアクセントのない現在を保証するような、同質的で、疑問なく前提されている可視性の媒体としての光は、十六・十七世紀において「調整」の可能な局部的な要因へと変化する。カラヴァッジョやレンブラントはすでに『光の演出』ともいうべきこと」を、絵画に引き起こしたと、ブルーメンベルクは指摘する9。そして、「「調整」の可能な局部的な要因」としての光が様々な技術と結びついて、「狙いを定めた光10」が発見され、同時に、その可能性が試されてきた。

その試みのひとつとして古くから存在してきた、カメラ・オブスキュラは、充満する光の一部を穴に通すという操作をすることで暗い部屋に導き、像を壁面に映しだしていた。そして、このカメラ・オブスキュラから派生し、ファンタスマゴリア、映画へと繋がる投影装置がもたしたものは、像を作り出すための狙いを定めた光そのものをつくり出してしまうことであった。その光は、私たちが直接見てもただまぶしいだけのものでありながら、太陽の明るさのなかで見るには暗すぎるものであって、この技術によってつくり出された新たな光源は闇との対比の中でのみ真なるものをあらわにする太陽として機能することができると言える。それゆえに、その光源は常に暗い部屋の外側に位置するものであって、それを直接覗き込むことは「照明と見ることとの対応の自明性11」の喪失を意味し、眼を痛めることを意味していた。だから、映画では、狙いを定めた光を暗闇の先に位置するスクリーンに投影し、その反射光によって、私たちははじめて、像を見ることができるようになっているのである。つまり、フリードバーグの「窓」のメタファーが示していた、枠づけることと真実を告げることの結びつきは、外からやって来る、すべてを明らかにする光によってもたらされるものなのである。これらのことから、フリードバーグが「窓」というメタファーで示そうとしてことが明らかになる。それは外からやってくる真実を示す光を枠づけるということである。しかし、テレビをはじめとする電子的視覚表示装置は、このアルベルティの窓から映画へと続く「光の枠をつくりそこに像を映しだす装置」と奇妙な関係を持つものとして登場する。フリードバーグは電子的視覚表示装置と映画との関係を次のように述べている。
(観客を取り戻そうとする映画館のオーナーから、バザンのような映画理論家、そして、レイモンド・ウィリアムズのようなテレビ理論家まで)テレビは「あまりよくない映画のスクリーン」であるとされてきた。しかし、それは、ヴァーチャル・ウィンドウとして確かに機能してきたものである。カメラ・オブスキュラの投影という特徴に頼ることなく、テレビとコンピュータのスクリーンは光を発する表面であり、いつでもすでに光で満たされている。最近、マイクロソフトは、ウィンドウズの成功を、マイクロソフト XP メディア・センターへと広げようとしている。この「ホーム・エンターテイメント・システム」への収束はテレビをコンピュータへと変えるものであり、ユーザ/観る者が、「まさに今行われている」テレビを巻き戻したり、コントロールすることを可能にするとともに、複数の番組の録画や、録画したものを DVD にしたり、タイトルや日付などで分類して保存することをも可能にする。テレビのスクリーンは、放送の受像器からケーブル放送やビデオ、最近では、衛星放送や DVR(ハードディスク内蔵型録画機)やコンピュータのスクリーンと結びつくことによって、その開口部の性質を変えてきている。近々、映画のスクリーンが、あまりよくないテレビと見なされるかもしれないし、劣ったコンピュータ・ディスプレイだと考えられるかもしれない。スクリーンの変化の中で「観賞者」という言葉は、その理論的先鋭性を失っている、私たちはスクリーンと関係を持つのである12。
ここで、フリードバーグは私たちとスクリーンとの関係が「見る」というものだけではなく、「関係を持つ」ようになっていることが重要であるとしている。それゆえに、コンピュータのユーザが、ディスプレイに展開する「複数の窓」を操作できるということが視覚的な歴史の中で大きな意味を持つとされる。この変化の中で、「あまりよくない映画のスクリーン」であった電子的視覚表示装置は「映画よりも優れたスクリーン」となっていく。この変化をもたらしたのが電子的視覚表示装置と接続される機器の違いであることは確かである。つい最近まで、この装置の多くはテレビと呼ばれ、その名前の通り、「遠くを見る」という機能を私たちの生活にもたらすものだった。ヴィレム・フルッサーが、テレビのことを「地平線の彼方で放射された画像を見せる窓13」と記しているように、外の世界からの光を取り入れる窓として考えられた電子的視覚表示装置は、そのひとつの理想形である映画と比較され、常に劣った窓だと見なされてきた。それゆえに、これらの装置は、映画に追いつこうという方向性のもとで技術革新が進められてきた。しかし、テレビと呼ばれてきた電子的視覚表示装置は、ビデオやコンピュータという新たに結びつく装置を最近になって得た。フルッサーは、ビデオと結びついた電子的視覚表示装置をモニターと呼び、その性質は「現在の出来事または過去の出来事の鏡14」であるとしている。この指摘が示しているのは、電子的視覚表示装置は接続する装置の違いによって、「窓」としても、「鏡」としても機能するということである。しかし、このふたつの機能は常に混同されてしまうと、フルッサーは指摘する15。この混同は電子的視覚表示装置が遠く見るための「窓」という機能と強く結びついている間、装置の「鏡」の機能を隠蔽するものとして作用した。それゆえに、フリードバーグを含め私たちの多くがビデオと接続された電子的視覚表示装置が「鏡」として示す「窓」とは異なる機能を正確に捉えることができずに、ビデオを映画と同じ「窓」というメタファーで捉える混同をしてしまっていたと考えることができる。

しかし、この装置がそもそものはじめから映画とは異なる特徴を持っていなければ、「劣っていた窓」が、急に「優れた鏡」になるような変化は引き起こされることはなかったのではないだろうか。その特徴と考えられるものをフリードバーグ自身が記している。それは、電子的視覚表示装置が、従来の投影というシステムを必要とせずに「光を発する表面であり、いつでも、すでに、光で満たされている16」ということである。しかし、フリードバーグは、「投影された光であろうと、陰極線管やプラズマの光であろうと、スクリーンの空間は、ヴァーチャル空間である17」として、この光に関する変化を記しているにもかかわらずそれを重要視しない。このことは、フリードバーグの関心があくまでも光によってつくり出されている枠にあることを現している。彼女にとっては、テレビやコンピュータ・ディスプレイが、自ら光を発しているということは重要なことではなく、その開口部が光で満たされているのならば、それは外からの光を取りこみ枠を作っていることを示しているにすぎないのである。つまり、自ら光を放つというその性質が「窓」というメタファーを電子的視覚表示装置に対して無条件に適用することを導くことになる。よって、フリードバーグにとって、この装置が示す光の性質は映画や絵画において枠をつくり出し、像を示しているものと同一のものとされる。

だが、電子的視覚表示装置が自ら放つ光によって、フリードバーグが「窓」というメタファーを採用した際に前提とした光の枠とその真実性という関係が崩壊してしまっているのではないだろうか。そして、この装置が放っている光は、もはや外からさし込んでくる真実を示すものではなく、そこに現在や過去の出来事があたかもそこにあるかのように振る舞って、私たちを惑わすものと考えるべきなのではないだろうか。つまり、フルッサーが明確に示したように電子的視覚表示装置は、ビデオやコンピュータという新たな電子機器と結びつくことで装置自体が持っていた本来の性質を顕わし始め、外からの光をそのまま受け入れ、真実を告げる「窓」よりも光を全面的に反射したまぶしさの中に、現実の代替的なヴィジョンを示す「鏡」というメタファーで装置が放つ光とその像を考察することを私たちに促しているのである。しかし、フリードバーグは、「窓」というメタファーが示す枠という機能を強調するがゆえに、枠としての光には気づいても枠の中の光を見ようとしなかった。それゆえに、電子的視覚表示装置が示している光の変化に気づくことができなかった。これは「窓」による「鏡」の隠蔽なのである。

この隠蔽は、情報社会において私たちの生活を取り巻いている自らが光を発するという新しい特徴を持った電子的視覚表示装置を「ヴァーチャル・ウィンドウ」として考察する上で必要なことではあった。しかし、このことは同時に、電子的視覚表示装置を絵画や写真、映画の延長線上に位置するものとして考察しようとしたフリードバーグの限界を示している。電子的視覚表示装置は、フリードバーグが示すように「ヴァーチャル・ウィンドウ」と言える一面を確かに持っている。しかし、その本質は「鏡」という外からの真なるものを示す光を利用して、あたかも自らが輝いているようなまぶしさで移ろいやすい出来事の光の像を示し、私たちを幻惑しているものである。私たちはこの「鏡」が示す光とそれが示す像の性質を考察しなければならないのである。

2.反転しない像を示す鏡
では、「鏡」というメタファーで記述される電子的視覚表示装置は一体どのような機能を示すのであろうか。フルッサーは、この「鏡」としての電子的視覚表示装置のことを次のように記している。
モニターは、古典的な鏡とは違う。それは左右を逆転させず、伝統的な意味での<鏡像>を提供しない。そのことは、モニターに慣れていない人間をひどく混乱させる。事態が逆転されずにモニターに映るということがわれわれを混乱させるのは、われわれが<思索>と<省察>において裏側を見るのに慣れているからである。これに対して、モニターは反射(反映)の概念を非弁証法的に [屈折なしに]思い描くことを可能にするのだ。モニターは、また、映される対象からくる光を反射するのではなく、陰極線による蛍光を放射するという点からしても、古典的な鏡ではない。それは、直接・間接に太陽からくるのではないきわめて稀有な光だから、モニター上の画像は掛値なしに、革命的に新しい異例な光を浴びているのだ18。
電子的視覚表示装置は、「伝統的な意味での<鏡像>」を映しださずに「革命的に新しい光」を発して、像を示すものだとされる。この指摘の意味を捉えるために、まず、鏡に映っているものは、なぜ左右反転しているのであろうかということから考察をはじめたい。サビーヌ・メルシオール=ボネによると、鏡には、「対象とその像とが重ならないような対称性19」が存在しており、それは、そこに映っているものが、複製であることを示している。しかし、ボネは次のように続ける。
アルベルティが『絵画論』のなかで鏡について語った次の一節は、よく知られている。「どういうわけかわらからないが、うまく描かれたものは鏡のなかで大いに優雅さをます。不思議なことに、絵画のあらゆる欠点は、鏡のなかでは歪んでいることがいっそうはっきり見える」。映った像は、類似のまっただなかにほんの少しの隔たりを穿つ。像はそこに優雅さを、均整という唯一の尺度には還元しがたいなんだかよくわらない美を、あるいは醜さを通り越して奇怪さに紙一重のなんだがよくわらない非対称を、付け加える。ぴたりと一致するには、一揃いの鏡があって、その鏡のなかで、対象とその像のまたその像とが合致する必要があるが、しかしそのときには視覚的に合成するという回り道をとらねばならないから、現実世界とのつながりは消滅してしまう。類似を装いながらも、鏡はもうひとつ別の真実を隠している。そしてこの真実はこっそりとしか姿を現さないが、しかし姿を現すときには、恐るべき差異と斜性のなかで現れる。「怪しげな類似」あるいは無気味な奇妙さ、鏡は他性を映すものなのである20。
ボネは、鏡が示す対象と像との非対称性を解決するための手段として、合わせ鏡を持ち出す。そこでは鏡に映っている対象の像が、さらに別の鏡によって映されることで対象とぴったりと重なる像が映しだされるのであるが、その像は「像の像」であって「現実世界とのつながりは消滅して」いるとされる。ここで、ボネが「現実世界とのつながり」と呼ぶものが「対象とその像とが重ならないような対称性」であり、それは左右反転した光の像として現れているのである。この左右反転が示す「怪しげな類似」によって、鏡は私たちが現実世界に、光の像がもうひとつの別の世界に存在するものであるということを示している。そして、鏡の世界に存在する光の像は合わせ鏡による合成によって、ひとたび左右反転という現実世界とのつながりを断ち切ってしまえば、鏡と鏡の間を絶えず反射して行き来している間、「空間に置かれた物体を逆さにしたり、その数をいくつにも増やしたり、遠ざけたり、近づけたり、ばらばらにしたりすることを可能にする21」いかようにも変幻自在に操作することができる存在となる。つまり、鏡の左右反転は、光の像の操作可能性を端的に現すがゆえに無気味さを示すのであり、それは私たちが鏡の世界に入り込むことを思いとどまらせるものとして機能する。しかし、電子的視覚表示装置は光の像の合成を行う合わせ鏡のように左右反転を起こすことなく光の像を提示できる。それは、この装置によって映しだされている光の像が現実世界と切り離された変幻自在に変形可能な無気味な存在であることを巧妙に隠蔽して、私たちを鏡の国に誘っているものなのだろうか。

フルッサーの指摘によると、電子的視覚表示装置は左右反転を生じさせないがゆえに私たちを混乱させるのであるが、そのことはユルギス・バルトルシャイティスが「物質的世界も精神的世界も、光り輝く物体の底知れぬ深みのなかで、ひとつに結ばれる。鏡は非物質的なものと物質との坩堝にある22」と記していることと深く関わっているのではないだろうか。なぜなら、鏡は自らが物質的世界と精神的世界との結びつきの場であることを左右反転によって現していると考えることができるからである。それゆえに、私たちは左右が反転する鏡に映っているものを、光という粒子がつくり出す物質的世界として見ようとするとともに、それをまた精神的世界とも見ようともしてしまう。つまり、鏡の左右反転は、常に鏡に映っている光の像の存在を補完するために見る人の思索や省察を促すものとして機能しているとも言えるのである。しかし、電子的視覚表示装置はこの反転を生じさせない。この左右反転のない光の像は、そこに映っているものが何であるのかという思索や省察を見ている人に要求しない。そのことが最初見ている人に混乱をもたらすのは、電子的視覚表示装置に映っている光の像に対して、その存在を補完する精神的世界を付与することができずに、それがどんな世界に存在しているのかがわからなくなっているからである。しかしやがて、電子的視覚表示装置を見つめる人はそこに映しだされている光の像それ自体において、物質的世界と精神的世界とが結びついていることに気付き、そのことに慣れていく。それはなぜなのだろうか。

このことは、鏡がブルネレスキによって遠近法の確立のために用いられたと同時に、光の像の変形によって人々を驚かしてきたアナモルフォーズという技法でも多く用いられてきたこと関係すると考えられる。バルトルシャイティスは、このアナモルフォーズという「偏倚な遠近法システムに関心を持った人間がことごとく、気付いてみれば多少なりともデカルトと繋がっていたというのも、けだし奇妙な暗合ではないか23」と指摘しており、光の像の無気味な変形が世界を数学的に明らかにしていくという考えと深い関わり持ち、鏡がこのつながりをもっとも精確に現す道具であったことを示している。この鏡の特徴は、デカルト以前から気付かれておりジャンバッティスタ・デッラ・ポルタは『自然魔術』の中で、数学的証明の真理の視覚上の実験場として鏡を掲げると同時に、鏡の反射を組み合わせることで幽霊を生み出すことができると言っている24。このように、鏡とは「魔術と神話がすぐれて科学的な操作に直接に結びついているわけだが、それは、入射光線と反射光線にもとづいて目に見える世界を変貌・転倒25」させる操作を行えるものなのである。よって、電子的視覚表示装置はデカルトの明晰判明な思想を利用するアナモルフォーズという無気味な魔術によって、左右反転のない光の像を示しているといえる。そして、アナモルフォーズを生み出す鏡は数学という明晰判明な方法によって、自由な変形を行っているので、そこに左右反転した光の像が示す物質的世界と精神的世界との規則的な結びつきを見つけることができれば、その光の像を受け入れることができるようになるのである。だが、電子的視覚表示装置に映っている光の像は左右反転を起こしていない。このことは、電子的視覚表示装置が現実世界と鏡の世界との「重ならない対称性」から生じる光の像の操作可能性の無気味さを隠蔽しているのではなく、現実世界と鏡の世界とを一続きの存在にしてしまう装置であることを示しているのである。それは、現実世界そのものを光の像として映しだすということであり、私たちがそれを見続けるということを意味している。

しかし、光の像を見続けるということにはひとつの限界が存在している。それは,ボネが「鏡の反射は催眠や忘我状態を引き起こしうるということだ。つまり見ている者は鏡がまぶしくて外界の物体を見つめることができなくなり、注意力が内面に押し返され、目をふさがれ26」てしまうと指摘する「鏡のまぶしさ」である。このまぶしさは古典的な鏡が真なるものをあらわにする太陽の光を反射していることに起因している。しかし、電子的視覚表示装置は「直接・間接に太陽からくるのではないきわめて稀有な光」を発していると、フルッサーは記しているのである。この「稀有な光」とは、何であるのかを次に考察する。

3.稀有な光を放つ鏡
電子的視覚表示装置がつくり出す光に、レジス・ドブレは像に関する歴史における大きな区切りを見ている。ドブレは像の歴史を「言語圏(文字以降):偶像の体制」「文字圏(印刷術以降):芸術の体制」「映像圏(オーディオビジュアル以降):ビジュアルの体制」に区分けし、像の属性について考察している27。ドブレが映像圏と呼ぶものは映画から始まるのではなく「テレビ/ビデオ映像」から始まることが大きな特徴である。彼はこの新たな技術によって映しだされる像のことを次のように記している。
なぜ多色のテレビ/ビデオ映像に大きな区切りを見るのだろうか? 重なり合った二つの理由がある。まずはブラウン管によって、われわれが<映写>から<放送>へ、あるいは、外部の<反射光>からスクリーンの<放射光>へと移行したことである。テレビは、演劇、幻灯機、映画に共通の、暗い部屋と光の啓示を対置する古くからの装置を破壊する。テレビの場合、像にはおのれの光が組み込まれている。像はみずから示すのだ。おのれを源とするがゆえに、われわれの眼には、「自己原因」と映るのである。神、あるいは実体の、スピノザ的な定義だ。映写ではすべからく、スクリーンの外側に立つ映写技師が必要とされ、したがって二重化が前提となる。一方、ブラウン管の像は、表象の二つの極を、事物そのもののある種の放射へと融合する。次のようなメタファーがさほど仰々しくないなら、こういってもよいだろう。つまり、画素みずからが、世界の量子的構造を示すのである。つまり、担うものと担われるものとは同質なのである。われわれは美学から宇宙論へと移行したのである28。
ドブレはここで「テレビ/ビデオ映像」によってもたらされる変化をふたつ指摘している。ひとつは、「<映写>から<放送>」であり、もうひとつが「外部の<反射光>からスクリーンの<放射光>」である。このふたつの変化で私たちの生活に大きな変化をもたらしたのは前者であり、この変化が興味・考察の対象になってきたことはこれまでに指摘してきた。確かに「遠くを見る」という欲望を叶えるための窓として電子的視覚表示装置が技術開発されてきたということはひとつの事実である。しかし、「遠くを見る」ことを可能にした技術のひとつの起源を考察すると、そこに光の性質の変化を見ることができる。ジークフリード・ジーリンスキーは、電子的視覚表示装置の起源において、映画と電子的視覚表示装置に関する興味深い関係を示す事例を挙げている。
ジェンキンスは「遠くで見る」ために伝統的な映画を廃棄した。最初、ジェンキンスは対象を直接捉えようとしたのであるが、そこから得られた像の質は貧しいものであった。それを改善するために、彼はまず対象を撮影し、その写しとられた対象をスキャンするという回り道を試みた。つまり、複製をさらに複製したのである。それは、とても強い光線でセルロイドを照らすことによって可能となり、ジェンキンスはスキャンのためにとても明るく光り輝く写真を得た。彼の目的は視覚的次元におけるラジオと映画との共働であった。ジェンキンスにとって、電子的なテレビとは光の情報しかもたないフィルムの輸送を不要にする映画のための新しい流通方法でしかなかった。1922年に彼はこの目的のための最初の装置の特許を得た。1925年までにジェンキンスは実際的な距離をまずまずの結果で伝送できる程度にして「ラジオ・ムービー」を開発していた。このように、最初の動きの幻想の伝送にはフィルムそのものが用いられていたのである29。
ジェンキンスはフィルムに定着していた像に光を通すことで電気信号に変換する可能性を示したのであるが、より重要なことはこの変換を可能にしたスキャンという技術が、フィルムの全体を照らす光をより細かな光に分割して扱っていたということにある。なぜなら、このことはジェンキンスの装置が像を映しだすためには、光を映画よりも繊細にコントロールする必要があることを示すと同時に、それが技術的に可能になっていることを示しているからである。このコントロールされた光によって、フィルムに定着していた像は電気信号のなかに畳み込まれていくのであるが、その過程で光はフィルムという物質性を剥奪していく。ジェンキンスが行ったことは、現在ではテレシネと呼ばれる作業なのであるが、ドブレはこの作業に関連して「写真/映画」と「テレビ/ビデオ映像」との像の物質性について次のように考察している。
写真と映画の場合、像は物理的に存在する。フィルムは、裸眼で見えるコマの連続だ。テレビ/ビデオの場合、像はもはや物質的には存在しない。存在するのは、それ自体不可視の電子的な信号だけで、一秒間に二五回、モニターの走査線上で走査される。像を再構成するのはわれわれなのだ。映画の映像では、あらゆる要素が瞬間的に、まとまりとして記録される。それは一つの全体だ。テレシネでは、点ごとに光学的像が電子信号へと移し替えられる。次に解析用の電子管によって、走査線ごとにコマの要素が解析され、テレビ/ビデオ映像は分解される。それぞれの要素ないしテレビ/ビデオ信号は、一個の情報を構成する。テレビ/ビデオ映像はもはや物質ではなく信号なのである。<見られる>ためには、記録装置のヘッドによって、<読まれる>必要がある30。
確かに映画の装置においても光は暗闇を貫くようにコントロールされたものであり、フィルムに定着していた像をスクリーンに引き離して提示するものである。しかし、そこでの像はフィルムという私たちの眼で見えるものに物質的に存在している。それに対して、ジェンキンスの「ラジオ・ムービー」を起源とするテレビやビデオが行うことは、フィルムに定着していた像を光の中に呑み込み物質性を剥奪し、私たちの眼には「不可視な電子的な信号」として非物質的な存在に変換するという操作である。この操作は、像を作り出すための新しい方式である「逐次方式」によって可能となった。写真や映画は3次元の世界を2次元の世界へ変換する際に同時にその全面を再現するという「同時方式」を用いている。それに対して、電子的視覚表示装置が採用する「逐次方式」は世界を一度分解して、時系列の電気信号に変換し、その信号から世界の像を再構成するものである。この方式の特徴は、世界が一度電気信号に変換されるために原図と再現図が同じ場所で操作される必要がないということにある31。それゆえに<放送>を可能とする技術なのである。「同時方式」は物質性を保ちつつ3次元の世界を2次元で再現する機能をもち、これはフリードバーグが「窓」というメタファーに与えた機能である。それに対して、「逐次方式」は物質的世界を電気信号という非物質に変換するのであって、それは物質性と非物質性との坩堝を示す「鏡」が示す機能を電気的に実現しているものなのである。つまり、ジェンキンの「ラジオ・ムービー」は、光そのものが直接像を示すということを電気の光を用いて実現したのであり、ジーリンスキーが「最初の動きの幻想の伝送」と記したものはその副産物だったと言えるのである。

像の形成に「逐次方式」を採用した電子的視覚表示装置は電気の光によって、像を映しだすために必要不可欠なものであった物質性を分解して、光そのものによって形成される像を私たちに放射する。ここで重要なのは、ドブレが記しているように光が私たちに向かって放射されることであり、私たちがそれを直接覗き込みそこに光の像を見ているということである。しかし、それだけでは、なぜ私たちがまぶしさを覚えることなく、光の像を直接見ることができるのかという問いが残されたままである。この<反射光>から<放射光>へという事象が示している本質を捉えるためには、この光の変化が「同時方式」と「逐次方式」という技術的な原理の違いに基づいており、それを可能にしたより細やかに光を操る技術から生じているという認識が必要なのである。なぜなら、私たちは、光をより自由に操る技術によって、光に組み込まれた像を放射することが可能な「稀有な光」を手に入れているからである。

4.明るすぎる光と明るすぎない光
私たちは、なぜ電子的視覚表示装置から放射される「稀有な光」にまぶしさを感じることなく直接覗き込むことができるのか。そして、このことは何を意味するのであろうか。この問いを、アーサー・ザイエンスによる光の歴史を参照して考察していく。ザイエンスによると、光とは最初は神であり、プラトンは私たちの眼に存在している炎によって穏やかな光が眼から発せられ、それが太陽の日の光と融合することによって私たちは事物を見ることが可能になると考えていた。ここには精神という内なる光が存在している。そして、長い間、光は精神的で霊的なものであった32。そこでは、すべてが照らし出されていたのであるが、何かを見るためには私たちの内なる精神の光を太陽の光に合わせる調整が必要とされた。しかし、中世になると太陽の光はグローステストによって「最初の物質的な形態」となり、デカルトが精神の光を太陽の光について「視覚と光は純然たる機械的作用として理解すべきだ」と分析し、機械的・数学的な世界像を示した。それはニュートンの粒子光学へと繋がるものであった33。そして、光は数学的に分析し、その性質を解明すべきものとなっていったのである。ザイエンスは、この光の変化を「抽象的完全さと実体的な現実が不死の神々の精神的完全さと力に取って代わった。これは思想の交代をはるかに超えるものだった。それは、西洋世界の知覚の仕方の大きな転換を含んでいた。物質的で機械的な眼が昔の精神的で霊的な眼に取って代わった」と述べている34。ここでは、光が外部のものであるがゆえに、観察者はそのすべてをつぶさに観測できるのとされ、光は眼に見える機械のように扱われるようになった。しかし、デカルトとニュートンが築いた世界観が揺らぐ時がきた。それは、ゲーテによって、光新たな精神的な概念を付与していく色彩論から始まり、このゲーテによるニュートンへの批判から光は再び眼に見えないものとの結びつきを持ちはじめた35。そして、物理学においてもマックスウェルによって、光が電気と磁気と絡み合っていることが明らかになり36、光が不可視な力と密接な関係があることが示されるという状況になっていったのである。そうして、私たちが眼にしている光を知るために、私たちが見ることのできない光の最小部分である光子の観測へと導かれる。
光子の歴史を記述するためには、細部を超えて抽象的なレベルに上がらなければならない。光子がとれるあらゆる道筋の「量子振幅」を足し合わせて構成された「重ね合わせ状態」こそ、光子の適切な量子力学的記述なのである。重ね合わせ状態の展開という概念が、古典物理学でお馴染みの軌跡の概念に取って代わる。重ね合わせ状態とは、とりうるさまざまな道筋が形而上学的に混ざり合ったようなものであるが、実在論をとれない。これこそまさに光線分割器から検出器に向かっているときの光子のあり方なのである。ホイーラーは、重ね合わせ状態を「煙を吐く大きな竜」と呼ぶ。竜の頭と尻尾は姿を現しているが、巨大な胴体は煙に覆い隠されている。光子も同じである。私たちは光子の放出と検出においてなら何もかもわかるかもしれないが、その間に光子がたどる道筋は結局、不明瞭である37。
光に関する新しい記述方式である量子力学的記述によってもたらされた内部観測の問題によって、私たちは光を「古典物理学でお馴染みの軌跡の概念」で説明することができなくなり、光を明らかにするため私たちは不明瞭な世界に降りていくことになる。なぜなら、「量子力学という新たな物理学は、非局在性の謎を含め、量子ポテンシャルによって担われる。電子や中性子や光子は、この幽霊場によって導かれる38」からである。このような流れで、ザイエンスは人々が光をどのように考えてきたかを古代から現代まで論じ、現代の光の見方のひとつとしてディビット・ボームが「幽霊場」と呼ぶものが出現してくると記している。ボームの理論が量子物理学的に妥当なのかどうかはここでの問題ではなく、光の性質を明らかにしようという歴史を見ていったものの帰結のひとつとして「幽霊場」という不可視で不明瞭な場の概念が出てきたということを次に考えていきたい.

すべてを照らし出す光そのものが、不可視なものを含んだ「幽霊場」と繋がりを持つものとして認識されるようになった。光と幽霊のつながりは一見矛盾しているように思われる。幽霊は闇と結びついているはずではないのか。しかし、以前にも光は幽霊をつれてきている。それは「狙いを定めた光」を利用したマッジク・ランタンや映画である。そこでは、光の充満の中に幽霊が現れることで多くの人を驚かしていた。北澤はこれらの装置において、闇の中に蠢くものである幽霊の存在証明は光の充満によってもたらされたと指摘している39。この幽霊の存在は、それが技術的に操作されているとはいえ、暗闇の外に位置する真実の光の充満をもたらす光源によって証明されている。なぜなら、デカルトやニュートンが行ってきたのは「光は物体を現すということの論証40」であったからである。こここでは、光はすべてを可視化する明るさをもつものと前提され、光と闇との対立によって、その力が際立つように設定されている。

この光と幽霊のつながりの起源は、プラトンの有名な洞窟の比喩に遡ることができる。その洞窟で囚人たちは戒めのために一生涯頭を動かすことができずに、太陽の代わりとしての炎の光で投影され、目の前に展開される影を見ている。彼ら・彼女らは影を映しだしている炎を直接見るように強制されてもその眼を痛めてしまい、また誰かに洞窟の外に連れ出されたときにも、太陽の光がまぶしすぎて何も見えなくなってしまう。ここまでは映画を説明するためによく引用されるところであるが、これにはあまり言及されることがない続きがある。最終的に、外に連れ出された囚人は、外の世界に徐々に慣れていき、「最後に、太陽を見ることができるようになるだろう --- 水その他の、太陽本来の居場所ではないところに映った映像ではなく、太陽それ自体を、それ自身の場所において直接しかと見てとって、それがいかなるものであるかを観察できるようになる41」のである。囚人は太陽をはじめとする光を直接見ても、最終的に眼を痛めるようなまぶしさを感じることがなくなるのである。

私たちはプラトンが示しているように太陽という光源を直接見続けることは出来ないであろう。しかし、私たちは、現在、電子的視覚表示装置という光源を直接見ている状態にあるにもかかわらず、そこにまぶしさを感じることはほとんどない。それは私たちの眼が慣れたからではなく、私たちの眼に合うように細やかに調整されている「稀有な光」によって可能になっているのである。プラトンは光源を直接見ることが精神的な成熟によってもたらされるということを比喩で示したのであるが、現代においてそれは幽霊場によって導かれる、光を制御する技術の進展によってもたらされている。なぜなら、この幽霊場において、眼に見える光と眼に見えない電気とが繋がることによって、私たちは光の操作可能性を大きく拡げることになったからである。つまり、電子的視覚表示装置は眼に見えるものと見えないものの結びつきを導く幽霊場を利用して、自らが光を発しており、私たちはその光を直接見ていることになる。それはまた、私たちが光の奥に幽霊を見ていることを意味するのである。しかし、光の中に幽霊を映しだすマジック・ランタンや映画も電気の光を利用した装置ではないのか。しかし、これらの装置は光と闇との対立を用いることで、電気の光が持つ、不可視なものとのつながりを上手く隠し、その輝きを、太陽と同じように陰りのないものとして示す装置なのである。それに対して、電子的視覚表示装置は不可視なものとの結びつきを隠すことがない光源として登場し、私たちが光に直接像を見ることを可能にしているものなのである。

しかしながら、太陽がその比類なき明るさで、幽霊を含めすべての存在を証明してきたならば、この新たな光源はそれが映しだしている光の像の存在証明をするには明るさが足りないものとされるであろう。なぜなら、それは自らのうちに存在を証明することができない「幽霊場」という闇を取りこんでいる光だからである。確かに、太陽の光はすべての存在をあかるみ出すほどに明るいのであるが、それはよく見ることを不可能にする程明るすぎるのである。それに対して、電子的視覚表示装置の明るすぎない光は、映しだしている光の像の存在を証明するには明るさが足りないものではあるが、それゆえに、私たちはその光にまぶしさを感じることない。ここには、従来の光と闇の対立ではなく、太陽の明るすぎる光と電子的視覚表示装置が放射する明るすぎない光という新たな関係が生じているのである。そして、この明るすぎない光は、私たちに光源を直接覗き込み、光の像をよく見るという新たな感覚を導くものなのである。

おわりに
本論考は、フリードバーグの『ヴァーチャル・ウィンドウ』における「窓」のメタファーによる「鏡」のメタファーの隠蔽を明らかにすることから、電子的視覚表示装置を「鏡」というメタファーから考察してきた。その際に、フルッサーとドブレにおける電子的視覚表示装置に関する指摘を参照した。そこから明らかになったのは、電子的視覚表示装置は、電子的な合わせ鏡であって、現実世界を自由に光の像を操作できる鏡の国と一続きの存在にしてしまうものであり、装置自体が光の像をつくり出すための光源であるということであった。このことは、この装置が光を詳細にコントロールすることができる技術から成立していることを示すもので、それはプラトンの比喩にも強くみられる光と闇の対立を崩壊させるだけではなく、光源そのものを私たちが直接覗き込めるようにコントロールされた明るすぎない光源に替えてしまうことを意味していた。それは、電子的視覚表示装置が放射している光が、太陽の明るすぎる光をもってしても、存在の証明をすることができない幽霊場と結びついているということと深く関係していた。それゆえに、電子的視覚表示装置は明るすぎない光を放って、私たちに光源を直接覗き込み光の像をよく見るという新たな感覚を導くものであった。しかし、これらの性質を示す電子的視覚表示装置が放射する光の像の存在を証明する「よく見る」という行為が何を意味するのか、また、その証明に大きく関与するコンピュータとの繋がりまで論じることができなかった。この点は、改めて論じるべき大きな課題である。

謝辞:本研究をすすめるにあたり、助成していただいた財団法人 堀情報科学振興財団に深く感謝致します。

2 Ibid., pp.15-18.
3 Ibid., p.15.
4 Ibid., p.18.
5 Ibid., p.32.
7 同上書、24頁。
8 同上書、100頁。
9 同上書、102頁。
10 同上書、102頁。
11 同上書、69頁。
12 Friedberg, pp. 177-178.
14 同上書、254頁。
16 Friedberg, p.178.
17 Friedberg, p.179.
18 フルッサー、前掲書、253-254頁。
20 同上書、241頁。
21 同上書、254-255頁。
25 バルトルシャイティス、1994、25頁。
26 ボネ、前掲書、204頁。
28 同上書、336頁。
30 ドブレ、前掲書、332-33頁。
33 同上書、113頁。
34 同上書、116頁。
35 同上書、226頁。
36 同上書、177頁。
37 同上書、354頁。
38 同上書、370頁。
40 同上書、1987頁。

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