映像による「未生」の感覚

映像による「未生」の感覚を考えることが,
これからの映像を考えるときに必要だと思う.
これまでのことではなく,これからのこと.
しかし,それは,考えるだけではだめで,
映像自体で示さないとならない.

だが,考えることが映像の未生の感覚に貢献できる方法もまた,
同時に,考える必要がある.
文字で書くことによる「わかる」ということ.
映像の未生の感覚を文字の流れで「わかる」流れをつくること.

このブログの人気の投稿

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(3)

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

マウスとカーソル:カーソルによる選択行為

Paddles ON! London に関してのいくつかのメモ

村本剛毅『Beautiful Medium』への寄稿

カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

Poi vol.3 featuring Kazuhiro Jo

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(3)