映像による「未生」の感覚

映像による「未生」の感覚を考えることが,
これからの映像を考えるときに必要だと思う.
これまでのことではなく,これからのこと.
しかし,それは,考えるだけではだめで,
映像自体で示さないとならない.

だが,考えることが映像の未生の感覚に貢献できる方法もまた,
同時に,考える必要がある.
文字で書くことによる「わかる」ということ.
映像の未生の感覚を文字の流れで「わかる」流れをつくること.

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