映像による「未生」の感覚

映像による「未生」の感覚を考えることが,
これからの映像を考えるときに必要だと思う.
これまでのことではなく,これからのこと.
しかし,それは,考えるだけではだめで,
映像自体で示さないとならない.

だが,考えることが映像の未生の感覚に貢献できる方法もまた,
同時に,考える必要がある.
文字で書くことによる「わかる」ということ.
映像の未生の感覚を文字の流れで「わかる」流れをつくること.

このブログの人気の投稿

「テクノロジーと表現論」(2026年度)の授業資料

日本映像学会第51回大会での発表:『映像そのもの』という何かを感じ始める

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか.

GIFとループと物語

「自己座標系」なんて投げ捨てたい

「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

メモ:Artie Vierkant Usage Pendingに関するメモ

村本剛毅『Beautiful Medium』への寄稿

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》