windows 7 touch リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 7/06/2009 windows7 も touch.スクリーンに触ることの障壁が,iPhone でなくなった.心理的な問題.技術的な問題.商業的な問題.私たちの知覚はどうなるか.「Windows 7」のタッチ機能--普及の鍵は何か リンクを取得 Facebook × Pinterest メール
中村夏野さんの個展《we, topologically.》のトークイベント「イメージと物語をめぐる認知」に登壇しました。 7/27/2026 中村夏野《Duality》 2026年7月25日(土)、大阪・西成の SUCHSIZE で、中村夏野さんの個展《we, topologically.》のトークイベント「イメージと物語をめぐる認知」に登壇しました。その記録を、トークに向かっていった経路と、トークで実際に話したこととに分けて、書いてみたいと思います。 「跨がされる」から始まった 5月の終わりに、Yukawa-Nakayasuさんからトークとレビューのオファーをもらいました。共有された資料を読んで最初に書いたのは、中村さんの作品が「デジタルとフィジカルを横断している」という説明ではなくて、作品を見るわたしの方が二つのあいだへ「跨がされる」ということでした。これはデジタルか、フィジカルか。オリジナルか、コピーか。発光か、反射か。判定しようとするたびに判定の足場がふっと浮いて、右足と左足はそれぞれの領域に接地しているのに、身体全体はどこにも接地しない。この宙に浮いた感じを軸にする、と引き受けの返信に書きました。 展示初日に行われたトークの打ち合わせで、わたしが「物語に興味がない」と言ったら、それってどういうこと、となって、中村さんが「イメージと物語」をテーマにしましょうと言って、わたしは「困ったな」と思いつつ、それでいきましょうと言いました。 初日、「発光の粘度」を持って行く(7/3) 展示を見に行く前にオンラインカタログを全部読みました。というのも、SUCHSIZEは展示までにしっかりと展示に基づいたカタログができているのだから、それを読んで展示に臨むというのが、今回のトークや、そのあとに書くテキストに活かせると思ったからでした。このような体験ができるのであったら、しっかりとその体験をして、そこからテキストを生成してみたいと思いました。 テキストを読んで、電車の中でAIと対話しながら、作品を実際に見る前に、オンラインカタログを読んだ感じとして、「発光の粘度」という言葉が出てきました。光には粘度なんていう物性はないのに、その物性を合わせてみると中村さんの作品が面白く見れるんじゃないかと、わたしは感じていました。見る前から見るためのフレームを決めて行くという、わたしとしては珍しいことをしたと言えます。 会場で作品を見ながら書いたメモには、「発光が先にあって、認知と物質があとにある」と書いてありまし... 続きを読む
カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想 1/26/2010 講義でカーソルについて話した.講義ではエキソニモさんの《断末魔ウス》,《ゴットは,存在する》の《gotexists.com》を見た.その講義への学生のコメント. -- カーソルよりも物理的に破壊されきづついているマウスの方が可哀想に思いました 《ゴットは存在する》を見てなんだか不思議な感じがした。ゴットについての検索結果がずらりと出ているにも関わらず、それらにカ-ソルを合わせて見ようとすると見られない。いつも当たり前に出来ている事が出来ないと言う事の不思議さが、とても新しく、面白いと思った。 なんだか無機物なのにカバーを外して中身がどんどん剥き出しになる過程が有機的で気持ち悪いと感じました パソコンの画面にカーソルがあるのは当たり前だったので、深く考えたことはありませんでした。断末魔ウスについては、マウスは無機質な物なのにあそこまで無惨に壊されると痛々しかったです。無意識の内に感情移入しているんでしょうか。 その発想を思いついた人がすごいと思いました。 マウスがたくさん壊されて、無機物といえどかわいそうでいたたまれない気持ちになりました。 自分も普段PCを触って、必ずと言っていいほど使っているマウスが壊れていくのは、なんだか非日常的ですさまじかったです。 シュールレアリスムとはこのことを言うのかと思い、すこしだけ切なくなりました。 カーソルはたまにどこにあるのかわからなかったり、押したいところでないところに教えてしまうことがある。 映像は面白かったが少し怖かった。何を表現したかったのかがあまり伝わってこなかった映像だった。 マウスは今ではほとんどが赤外線を使用しており、使用感もボール式よりもなめらかになってすごく良くなったと思う。 これからは指先の細かな動きで操作出来るマウスが出ると思う。 あの矢印をもっと可愛いデザインにしてほしい。 カーソルは、基本的に矢印と手の人差し指で表されていますが、未来のカーソルには、動物の手や人の顔などでも表示されるとおもしろそうだと思います。 いろんなアイコンにカスタムできるけど 結局シンプルかつわかりやすいので矢印が一番よいと思う カーソルをマウスで動かすのは、いつもちょっと難しいなぁと思います。 パソコンの画面のフィールドと実際のマウスを動かす机とは別物なので… Ma... 続きを読む
ゴットを信じる会《告白》について考えたことと,これからエキソニモとゴットのどちらを探るのだろうか? 6/05/2018 トークで,ゴットを信じる会の会員であり,「 ゴットを、信じる方法。 」展のキュレーターである中川恵理子さんが《告白》は「私たちへの問いかけによって,私たちのなかにゴットが生まれる」と言っていたのが興味深かった.エキソニモの「 ゴットは、存在する。 」は,私たちに明確な問いかけはない.それは,インターフェイスが私たちの身体=存在の代理となっているので,そこに 私たち=ヒトが 必要としないことを示しているからであろう.しかし,ゴットを信じる会の《告白》は,私たちを必要とする.そこが「ゴット」をめぐる大きなちがいであり,この10年間でのインターフェイスのちがいも含まれているような気がする. けれど,ここでゴットを信じる会がゴットに半信半疑だったことも考えなくてはいけないだろう.マウスとカーソルとの連動の感覚を全面的に内面化していた人たちにとっては,エキソニモの《祈》を見ることはシャーマンの儀式を見ることに近い.そしてそれは,信じるも信じないもなく,アニミズムが活きている状態なのである.それは信じるも信じないも,カーソルという画像を依代にして,目の前で実践されているシャーマンの儀式なのである.だが,《告白》においてはもはやアニミズムは活きた状態ではない.いや,マウスとカーソルによる儀式を見るといった他人事ではないものになっていると言えるだろう.《告白》では,見る者自体がシャーマンとならないといけないのである.ここでは傍観者のままゴットを感じることはできない,当事者にならなければならない. マウスとカーソルといった依代的インターフェイスが,タッチパネルというよりダイレクトなインターフェイスとなり,私たち自身にシャーマンとなるように要請する.私たちは,ゴットを信じる信じないにかかわらず,よりゴットに近くになっているのかもしれない.だが,それゆえに,私たち自身がゴットを受け入れるのかどうか問われていると言えるだろう.私にはまだわからないが,きっと,ここにはインターフェイスをめぐる一つの変化があるはずである. と,ここまで書いてきたのだが,私は《告白》を見ているときに,ゴットを感じることができなかった.私はゴットを感じるのに「依代」を必要としているのであり,自分自身が依代になれるほどには,ダイレクトにゴットを受け入れられていないのかもしれない.私は... 続きを読む
デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 3/12/2010 ここで,デスクトップ・メタファーが生み出されたパロアルト研究所に考察の対象を移したい.なぜなら,この研究所において,ディスプレイ上の対象物を指さすための道具であったマウスに,次々に新たな行為が付け加えられることになるからである. パロアルト研究所では,1973年に,アルト(図4-4)と呼ばれるシステムが開発された.アルトは,アラン・ケイや,バトラー・ランプソン,チャールズ・サッカーが中心となって開発された実験的なワークステーションであり,その大きな特徴は,ディスプレイ上のピクセルがメインメモリのビットに対応するビットマップ方式を採用していたことである.この決定は,ヒトが環境の情報を最も捉えることができる視覚を重視したインターフェイスを提供することが,マシンとソフトウェアの最大の目的であるという開発者たちの認識から導かれたものであった.そして,アルトのインターフェイスでもうひとつ重要なことは,ポインティング・デバイスとして,マウスが採用されたことである.当時,マウスは,入力デバイスとしては馴染みの薄いものであったが,スチュワート・カードによる実験によって,マウスが,ディスプレイ上の対象を指示するのに最も適したデバイスということになり,標準装備されることになった.4-42) 視覚重視の考えと,ヒトの手の原初的な感覚をコンピュータに持ち込むマウスという道具が,アルトというワークステーションで出会うことになる. 図4-4 ゼロックス社 アルト 視覚重視のアルトは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示することができた.このことは,ディスプレイ上のイメージが示すアフォーダンスの直接的な知覚に基づく指さし選択行為とマウスとの関係に影響を与えた. エンゲルバートのシステムでは,マウス・カーソルのイメージは,単なる点であった.しかし,アルトでは,カーソルの形は,矢印(→)になる.カーソルの形が,矢印ではなく点であっても,ディスプレイ上のイメージを指さす選択行為を遂行することはできる.では,なぜ形が変わったのか.それは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示できるようになっために,指さし選択行為の遂行に,より適したアフォーダンスを示すイメージを表示するようになったと考えることができる. ここでは,身体的行為を導くアフォーダンスとディスプレイ... 続きを読む
インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について 8/03/2013 インスタグラム の設定にある「元の写真を保存」,英語だと「Save Original Photos」という項目が気になる.デフォルトだと「オン」になっているので撮影した写真にフィルターをかけたものと「元の写真」が残ることになる.「オフ」にするとフィルターをかけた写真しか残らない.設定で「オリジナル」が消去される.ここには「オリジナル」という言葉が「軽く」扱われるというか,それが「設定」のひとつの項目になったんだという感じがある. http://en.wikipedia.org/wiki/File:Instagram_versione_(santa_fiora,_peschiera).jpg 「オリジナル」は消去されるが,フィルターをかけた写真は残る.オリジナルが消えているのだから,フィルターをかけたものが「オリジナル」となるのだろうか? 「オリジナル」かどうかというよりも,「インスタグラムらしさ」ということが重要なのかもしれない. この前のトークで ,ラファエル・ローゼンダールがウェブ上の自分の作品に「これがオリジナル!」という意味では「オリジナルはない」ということを言っていたが,インスタグラムという代表的な写真アプリの設定項目を見てみても,ポスト・インターネットという状況では「オリジナル」という言葉を取り巻く環境が変化していることは間違いない. 続きを読む
スケッチパッドで描く、ふたつの手(1) 3/30/2010 1.記録映像に映るふたつの手 ひとつの動画ファイルがある.そのファイルを再生すると,1962年の夏に撮影されたアイヴァン・サザーランドが開発したシステム「スケッチパッド」の映像が,グラフィカル・ユーザ・インターフェイスの基礎を築いたアラン・ケイによる説明とともに映し出される.そこでは黒い画面に白い線が,ペンで描かれていく.ケイが紹介していることからも,このスケッチパッドが,コンピュータの歴史の中で大きな影響力を持っていることが伺えるが,実は,このシステムに実際に触れた人はごく限られている.アラン・ブラックウェルとケリー・ローデンは,サザーランドの博士論文の電子版の前文で,スケッチパッドは,マサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所でカスタマイズされたマシン,TX-2 でしか動かなかったので,その影響力は,論文と使用状況を撮影したこの記録映像によって広まったと書いている 1 . その記録映像には,ディスプレイ横にあるボタンを押す手とディスプレイにライトペンと呼ばれるペンで線を描いていく手が映っている.また,これらふたつの手がまったく映っていないときに,白い線が規則的に動くということも記録されている.描く手を必要とせずに線が動いているのであるが,その線の動きには摩擦や空気抵抗が感じられない.そして,この摩擦や抵抗のなさは,ライトペンで線を描いている際にも同様にみることができる.今から,40年以上も前に撮影され,サザーランドのアイディアを多くの人に伝え,スケッチパッドを「個人によって書かれた最も影響力のあるコンピュータ・プログラム 2 」という地位にまで押し上げたこの映像は,何を示しているのであろうか. 私は,以前,スケッチパッドが「変換」という原理でイメージを生み出す装置であることを示した 3 .それは「痕跡」との一致という原理を逃れたイメージを描けるということである.この映像で,手が全く映し出されていないときに線が規則的に動くという,ある意味,マジックとも言えるようなシーンは,そのことを示している.このマジックは,後にケイが「最初のコンピュータ・グラフィックス・プログラムだということばかりでなく,スケッチパッドにはすばらしい面がたくさんあった.単に何かを描くための道具でなく,常に正しい法則に従って描くプログラムだったね.スケッチパッドで正方形を描こ... 続きを読む
2018年の振り返り 12/31/2018 2018年にはこの投稿を含めて43本の記事を書いています.2017 年が28本だったから,結構増えた感じです.本当はもっと増やしたかったのだけど,途中から note にもテキストを書くようになったので,結果として,こちらのブログは告知やまとめを書く場所になっていきました👻 ちなみにnoteには51本の記事を書いているので,合計して94本の記事を書いたことになります. 2018年は二つの連載をしていました.一つは MASSAGE で「 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳 」で,もう一つは ÉKRITS で「インターフェイスを読む」です. MASSAGEの連載「 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」は2016-2017年に連載していた 「モノとディスプレイとの重なり」の問題意識を「ディスプレイ」以外にも拡張して考えてみようというものです.現在,0回を含めて3回目まで書きました✍️ MASSAGE連載00_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか? MASSAGE連載01_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る MASSAGE連載02_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス MASSAGE連載03_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/浮遊するバラバラのサーフェイスがつくるバルクがマテリアルを拡張する ÉKRITSの連載「インターフェイスを読む」は今年4, 5回目を書いて,終了しました.自分なりに「インターフェイスの歴史」をまとめられられたかなと思います. ÉKRITS連載_インターフェイスからサーフェイスへ — スキューモーフィズム再考 - インターフェイスを読む #4 ÉKRITS連載_場に顕れるソフトウェア、隠れるオブジェクト - インターフェイスを読む #5 ÉKRITSの連載の問題意識の延長として,『 【新版】UI GRAPHICS 成功事例と思想から学ぶ、これからのインターフェイスデザインとUX 』に「思考とジェスチャーとのあいだの微細なインタラクションがマインドをつくる」を書きました. 【新... 続きを読む
デジタルな現象をそのまま扱うということは,モダニズム的な態度 8/04/2015 ucnvさんとのトークで「アーティ・ヴィアーカントの画像はそこにあったものをそのまま映していて,そこで生成されているわけではない」というようなことをucnvさんが言ったことがずっと気になっている. ヴィアーカントのイメージオブジェクト で展示の記録として撮影された画像は,そこで起こっている現象をそのまま記録している.もちろん3次元を2次元に変換するときの欠損はあるけれども,それでもそこで起こっている現象をそのまま記録している. その後,Photoshopでその画像が加工される.このときヴィアーカントはスタンプツールを主に使って,その展示会場で一度記録された色情報以外のものを使っていないということを,ucnvさんの指摘で気付かされた.これはとても大切なことような気がしている.展示空間を記録して,それを加工しているというのはこれまでの写真の見方で,ヴィアーカントは展示空間をスキャン=撮影して,デジタル化して,色情報が集積された平面にしていて,そこにもともとある色情報のみを使うことをルールにしているのかもしれない.スキャンというデジタルの現象をそのまま扱う.そこで生まれた情報のみを扱うという感じだろうか.スキャンによって空間を色情報をもった平面=テクスチャに変換する.そこでは空間や作品画像といった区別はなくなり,すべてが色情報になる.ただ,そこにあるもの以外は使えない.一度のスキャンという現象でうまれる情報だけを扱うこと. 「Vacant Room」での360度写真で感じたことは,見えない部分が生まれるということ.それは一度では見ることがなくなる.「フレームの外」が生まれること.現実も視点からしょうじる視界フレームによって「フレームの外」が生まれる.写真は「フレームの外」をなくして,「フレームの中」だけにする.360度画像には「フレームの外」がある.この感じが,空間をスキャンして色情報として「フレームの中」に閉じ込めるヴィアーカントのイメージオブジェクトと似ている. 「フレームの外」を感じさせる「Vacant Room」と「フレームの中」だけの「イメージオブジェクト」が似ているというはどういうことか.似ているというよりも,それが両立し得るのがデジタルという現象なのではないか.「Vacant Room」のとなりに「イメージオブジェクト」があっても,... 続きを読む
アニメーションとカーソルを考えるためのメモ 11/07/2010 「押す」行為に対して変化しないカーソルについて書いて(→ カーソルが示すひとつの切断 ),そのあとこう考えた. カーソルが画面上の「ボタン」を押したときに、何も変化するを示さないように、タッチパネルで「ボタン」を「押した」ときの指も変化をしめさない(実際には、押していないから、触れているだけだから).画面上でアニメーションがあるところと、ないところと、ヒトの身体との関係.アニメーションのある/なしと「コンピュータの身体性」との関係. http://mmmemo.posterous.com/32483046 これを書いたのは,Twitterで次のようなツイートが流れてきたことが影響している.最初のは,デザイナーの原研哉さん,ふたつ目は,坂本大介さんと渡邊恵太さんが行っている「インタラクションデザイン研究会」の第三回目で,渡邊さんが言ったことを LunarModule7 さんが書き取ってくれたもの. タッチパネルの感触はガラスの感触ではない.インタラクションの様相がそこに全く新しい「触覚」を育むだろう.ボタンに触って「にゃ〜」とゆっくり反応するのと、「ピッ」と電子音で鋭く反応するのでは、脳が感じる触覚が異なる. http://twitter.com/haraken_tokyo/status/29654770743 渡辺:iPhoneと身体性の例.iPhoneのアニメーションは身体性と大きく関連している.滑らかに動くことがカーソルの役割をしている.こうした滑らかなアニメーションがどうして重要なのか? そうした製品が見られるようになってきたが,エフェクトでは駄目. #sigixd https://twitter.com/lunarmodule7/status/29546365253 「滑らかに動くことがカーソルの役割をしている」という渡邊さんの言葉は,今後カーソルを考えていく上で,とても重要なヒントだと思う.まだ,うまく言葉にすることはできないけれど……. カーソルがヒトの行為を示すものではなく,ただ単に注意を引きつけるものだと考えるとすれば,滑らかなアニメーションがカーソルになると考えることができるのではないか.しかし,カーソルの示す先というある一点に注意を集中することと,滑らかなアニメーションが示すような注意の先が一点に収斂するのではなく,漠然とひろがっているよ... 続きを読む
カーソルが示すひとつの切断 11/05/2010 カーソルは画面上の「ボタン」を押す.そのとき,押された「ボタン」は,押されたことを示すアニメーションが付与される.それに対して,カーソルは何も変わらない.マウスのクリック音や,「ボタン」のアニメーションで「押す」という感覚をユーザに与えようとしているにもかかわらず,「ボタン」を押しているカーソルは何も変化を示さない. 指でボタンを押すときは,ボタンも押される,押している指にも変化がある.カーソルが手の延長として画面上にあるとすれば,イメージとして表示されている「ボタン」を押したときに,カーソルにも変化があるべきなのに,「↑」のイメージには何の変化:アニメーションも与えられない.それでも,私たちは「ボタン」の変化だけで「押した」ことを認識する.カーソルは指の延長ではあるが,現実の指と同じ変化は示さない.なぜなのであろうか.カーソルに押したことを示すアニメーションをつけることは難しいことなのだろうか.難しくないとすれば,なぜつけないのか? 「ボタン」の変化とともにカーソルにもアニメーションをつければ,より「押した」感じがでるのではないだろうか? だが,今までのところ,カーソルにはアニメーションが与えられていない.それは必要ないと,どこかで判断されているのであろう. ヒトが「触れる」対象についてはアニメーションが与えられるが,ヒトの手の延長として機能するカーソルにはアニメーションが与えられない.これは「コンピュータの身体性」に関係することかもしれない.ヒトはカーソルを手の延長として考えているが,コンピュータはその関係をボタンを押すという行為の最終段階で切断しているのではないだろうか.もちろん手そのものがディスプレイに入り込むことはないのだけれど,カーソルに「押す」ことのアニメーションを与えないことで,コンピュータは手がディスプレイに入り込むことを阻止しているのではないだろうか.コンピュータはカーソルにアニメーションを与えないことで,それがヒトの手の延長ではなく,あくまでも「コンピュータの身体」であることを示しているのではないだろうか. しかし,カーソルにアニメーションを与えないことを判断しているのは,コンピュータではなく,ヒトである.ヒトはカーソルを手の延長として作りながら,最後の最後で自らの身体とカーソルを切断していると考えることもできるかもしれない. 続きを読む