GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(4)

4.GIFとの遭遇と選択的認識
 ホームページの装飾という役割を与えられていた従来のGIFでは「遭遇」が前面に出ることがなかった.GIFはホームページの至るところに配置され見る者の注意を惹いたが,それはあくまでも「家」のなかの置物にすぎないものであった.「家」のなかに置かれていたGIFをネットの流れのなかへ解き放ったのが,タイムライン型のダッシュボードをもつTumblr35なのである.

 ガニングは「初期映画」が「映画はヴォードヴィルの演目に一つのアトラクションとして現われた.非物語的にしてほとんど非論理的なパフォーマンスの連鎖のなかで,相互に脈絡のないひとかたまりの出し物に囲まれて現われ36」,興行師の話にのって見せられていたと指摘する.これもまた,現在のGIFの受容と重なる部分である.GIFはTumblrというアーキテクチャを得て,「タイムライン」を脈絡なく流れてくるコンテンツのひとつとなり,見る者に「遭遇」という感覚を強く与えるようになったのである.動画にあるべき「再生ボタン」がないことが,この感覚をより強いものにしている.「再生ボタン」を持たないGIFは,ヒトとコンピュータとのインタラクションを否定し,ヒトと映像との最低限のインタラクションである「再生と停止」もできない.ガニングは初期映画の「上演」の際にはじめから動画を見せることをしなかったと指摘し,「最初の静止したイメージの投影は,装置の存在理由である動きの幻想をしばらく見せずにいることで,最初の映画の上映にサスペンスの効果をもたらした37」と書いている.Tumblrを流れてくるGIFではこれとは逆に,動画なのに勝手に再生されるということが「目の前にあるのは映像ではないのではないか」という「サスペンス」効果をつくりだすと考えられる.Tumblrのタイムラインの流れに放り込まれたGIFは,「驚き」とともに見る者と「遭遇」することになり,再び脚光を浴びることになったのである.

 Tumblrでの見る者とGIFとの「遭遇」について教えてくれるのが,《The Gif Connoisseur》というTumblrサイトである38.《The Gif Connoisseur》は,「鑑定士」がGIFアニメをとても近くで鑑定するというGIFアニメである.しかし,鑑定士はGIFを近くで見すぎていて,全体を見ることができていないようである.けれど,彼はそんなことはお構いなしに直立不動でGIFを見続ける.直立不動の鑑定士とGIFとの距離は限りなくゼロに近いが,ゼロではなく「ほぼゼロ」という感じになっている.《The Gif Connoisseur》の引用元,ノーマン・ロックウェルの《The Connoisseur》(1962)での鑑定士はジャクソン・ポロックによるアクション・ペインティングの手前に立っている.そこには「見る」ことを強制し「触れる」ことを拒絶するような「距離」があり,その関係がひとつの絵画として定着されている.しかし,《The Gif Connoisseur》での鑑定士はGIFに触れていそうな「ほぼゼロ距離」に立っている.「ほぼゼロ距離」に立つことで,彼とGIFとのあいだに「遭遇」という出来事を感じさせる妙な緊張感が生まれている.

       The Gif Connoisseur #216
 GIFを見る者にとって,GIFに対して「ほぼゼロ距離」に立つ鑑定士は邪魔な存在なのではないだろうか.しかし,彼に「GIFが見えないので少しどいていただけますか」と声をかける人はいない.むしろ,鑑定士の存在は大いに受け入れられている.それはIllustratorなどのグラフックソフトウェアが示す「最背面−背面−前面−最前面」という一見するとあるのかないのかわからない重なりを持つ平面に,GIFアニメと「鑑定士」が配置されているからである.鑑定士は他のすべてのオブジェクトに邪魔されることがない「最前面」という特権的な位置に立ちながらも,別のレイヤーにいるのではなくGIFと同一平面にある.写真研究家のダニエル・ルビンスタインは,GIFは真実や記憶を示すのではなく「出来事が起る空間」を画像に与えると考える39.この指摘と鑑定士とGIFが同一平面にあることから,《The Gif Connoisseur》を体験する者は「GIF」と「鑑定士」を見ているのではなく,「GIFと鑑定士の遭遇という出来事」に出くわしていると言える40

 鑑定士はGIFと同じ平面に位置することで,本来ディスプレイを見る者が持つべき「GIFとの遭遇」という特権を剥奪して「見る者」となる.しかし,鑑定士は見る者のもうひとつの特権であるコンピュータを操作することまで剥奪することはない.それゆえに,見る者は「GIFと鑑定士の遭遇という出来事」を「リブログするか/しないか」を決定する「鑑定士」となる.「見る者=鑑定士」となることは,ネット上でGIFと遭遇する者のあり方なのである.GIFとの遭遇者はそのすべてを見ることなく,一瞥程度や限定した見方でそれを鑑定していく.その際,「鑑定」という認識を成立させるのはTumblrであれば「リブログするか/しないか」であり,ホームページであれば「ドラッグして保存するか/しないか」という何かしらのコンピュータの操作なのである.この操作を伴った「認識」について,エキソニモの千房けん輔は「コンピュータ 記憶 シンクロ」と題されたブログ記事で次のように書いている.

やっぱり,選択的なデータしか記憶しないコンピュータの仕様が,現実/物質とのズレを生んでいるんじゃないかな.もし人間にそんなやついたら信用出来ないもんね(まぁわざとそういうふりする奴いるけどw)それでも人間同士だったら同じ時空を共有したら,同じ程度にすり減ってるような感覚を前提にできるけど,そん時一緒にいたPCくんはファイルとして保存しない限り,データの世界にその時空は刻まれないわけで41

 コンピュータは操作を伴った選択に基づいたデータしか認識せずに記憶もしない.この保存の仕方の違いは,「すべてを認識する」及び「選択的に認識する」という認識の解像度のズレに基づいていると言える.ウェブデザイナーの萩原俊矢も「保存について」というテキストで次のように書く

実空間で展開される僕たちの日常会話は自動記録されることなく垂れ流れていく,くだらない冗談もいい話も悪口もFavられることもRTされることもなく,全ては思い出として心や記憶に残って,うわさ話とかに変化し口頭伝承されていく,そういうアーキテクチャのなかにある.twitterでの発言すべてが残っていることに対して,リアルは保存という点ではとても不自由だけど,「いつまでもなつかしい」という感覚はそういうところに宿るのかもしれない42

 ヒトが「なつかしい」という感覚とともに「全て」を記憶するように,コンピュータは「全て」を記憶するわけではない.Twitterでは140字以内でつぶやかれた言葉のみが記憶され,さらにリツート(RT)などの行為をひとつひとつ遂行しなければ記憶が成立しない.ヒトがコンピュータとともに「つぶやく」という行為をしなかった言葉=データはタイムラインに流れることもなく,世界にその存在が認識すらされない.そして,何かしらの行為とともにコンピュータに認識・保存させたとしても,「なつかしい」などの感覚が伴わない記憶は,どこかで低解像度の認識,言い換えれば,単なるデータに基づいたものとみなされるのだろう.この意味で,ヒトはコンピュータとともに「選択的認識」と呼ぶことができるあたらしい認識を行なっていると考えられる.

もし森の中で木が倒れても,その様子を誰かがiPhoneで撮影して,すぐにTumblrやFacebook,Flickr,Google Reader,Instagram,Twitter,Deliciousにアップロードしなかったとしたら,その木は本当に存在するといえるんだろうか?43

 上の引用は,NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催された「「[インターネット アート これから]――ポスト・インターネットのリアリティ」」展でのアーティスト・トークで読み上げられたパーカー・イトーの「天国の季節――ポスト・インターネットを生きる」の一部である.ここにはiPhoneでの撮影と,その後に各種サービスに画像をアップさせていくという「選択的認識」のプロセスが描写されている.さらに,イトーは2012年に開催した個展「The Agony and the Ecstasy」で反射性素材を用いた作品を展示した.キラキラと反射する作品は,見る角度によって表情を変える.それを体験するにはギャラリーに行くしかないのだが,イトーはホームページに個展での記録写真,制作風景やパーティーの写真を画像解像度を気にすることなく大量に掲載してもいる44.それらの大量の画像は「すべて」を認識できないのであれば,できるだけ多く認識することが大切だという「選択的認識」のあり方を示している.「選択的認識」では画像の解像度は関係なく,認識が行われた量だけが問題なのである.だから,ひとつの画像がそれを表示する解像度が異なる多くのサービスにアップロードされる.「選択的認識」では,スマートフォンなどで撮影された多くの画像が,さらにサービスの数だけ増殖していくのである.

 また,ペギー・ネルソンの「GIFは世界のスケッチ45」というアイデアは,認識の解像度という点から「選択的認識」について教えてくれる.ネルソンは映画とテレビ,そしてYouTubeなどは「リアリズム」を求めてきたが,その反動としてネットで世界を「スケッチ」的に表現する流れがあることを指摘する.SecondLifeのようなリアルなアバターから,Twitterのような140字のテキストで自分を表すようなったのはその流れのひとつであり,GIFアニメもそのなかに含まれるとされる.ネットも含めて世界が「リアル=高解像度」に溢れているからこそ,「スケッチ=低解像度」の質感が改めて認識され始めているのである.だから,「選択的認識」では認識の解像度が低くても,そこにはそれ独自の質感が見出さることになる.そして,低解像度ゆえに膨大な量の認識が為される可能性が生まれるのである.

 世界のスケッチとしてのGIFは「選択的認識」と密接に結びついている.ウェブで,特にTumblrのダッシュボードの流れのなかでGIFと遭遇した者は,コンピュータのようにその都度「出来事を認識するか/しないか」,そして「認識するとしたらどこに保存先にするか」を決める「選択的認識」を行う平面に引き込まれる.そしてそこでは認識の解像度=画像の解像度は低くても,それ独自の質感が認められるため,大量のスケッチ的な認識が為される.GIFの流行は,ディスプレイを見る者が認識の解像度を気にすることなく「選択的認識」をはじめたことの現れと考えられるのである.

35 2007年にサービスを開始したウェブスクラップ,ミニブログソーシャルメディア.
36 ガニング,310頁.
37 トム・ガニング「驚きの美学───初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)観客」(濱口幸一訳),岩本憲児他編『「新」映画理論集成1 歴史/人種/ジェンダー』フィルムアート社,1999年,107頁.
39 Daniel Rubinstein, GIF TODAY, Born in 1987, 2012, http://joyofgif.tumblr.com/tagged/text#!/post/23221545148/daniel-rubinstein (2013.3.13)
40 《The Gif Connoisseur》に関する記述は以下のテキストをもとにしている.水野勝仁「The Gif Connoisseur,それはつまり「あなた」である.
」古屋蔵人・いしいこうた編『GIF BOOK───コンテンツ制作者のためのGIFガイド』株式会社ビー・エヌ・エヌ新社,2013年,54-55頁.
41 千房けん輔「コンピュータ 記憶 シンクロ」,センボーのブログ,2012年,http://www.cbc-net.com/blog/sembo/2012/02/13/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF-%E8%A8%98%E6%86%B6-%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD/ (2013.3.13)
42 萩原俊矢「保存について」,HGWのBLANK,2013年,http://www.cbc-net.com/blog/hgw/2013/03/08/%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ (2013.3.13)
43 Parker Ito, A Season in Heaven: Living Post Internet, http://www.parkerito.com/doc.html (2013.3.13)
44 Parker Ito, http://www.parkerito.com/ecstasy.html (2013.3.13)
45 Peggy Nelson, Lars and the Real Gif, other cinema, issue 20, 2011, http://www.othercinema.com/otherzine/?issueid=25&article_id=122 (2013.3.13)

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