「一つの絶対知」としてのインタラクティブ経験

たとえば,私が机のまえに立ったままで居て,両手でもってそれにのしかかっているという場合,私の手だけが強調されていて,私の身体全体はまるで彗星の尾のように手の背後へと流れて行っている.というのも,私の肩なり腰なりの位置が私にわからないからではない.テーブルのうえに突いた両手のその支えのなかに,私の姿勢の全体位置が言わば読みとられるからである.また,私が立って居て,私のパイプをを手で握りしめているという場合,私の手の位置というものは,私の手の位置が私の前腕とのあいだでとる角度,私の前腕が私の上腕とのあいだでとる角度,私の上腕が私の胴体とのあいだでとる角度,最後に私の胴体が大地とのあいだでとる角度──といったものから次々に推論されて行って決まるものではない.私は自分のパイプがどこにあるかを,一つの絶対知によって知ってしまっているのであり,まさにそれによって,私の手がどこにあるのか,私の身体がどこにあるかも知っているのであって,それはあたかも,沙漠のなかで原始人がそのつど一気に方向を見定めてしまって,別に出発以来辿ってきた道のりや外れて来た角度を思い出したり加算したりする必要なぞないのと相似ている.(p.175)
モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』

「一つの絶対知」
マテリアルと身体と間の作用・反作用

As someone who thinks of things from the perspective of creating interactive experiences, I really think that you do need something.
from: Q&A: Nintendo’s Shigeru Miyamoto on Mario Zelda, Project Natal and More

宮本さんとメルロ=ポンティを並べてみる.
「一つの絶対知」としてのインタラクティブ経験.
そこには,身体が接する何かが必要となる.

マテリアルと,マテリアルとしての身体.

また,
#52 概念を触る指 [Finger touches concepts]
第3章で掲載した角をなぞる図版の延長版であるが,ここでなぞられている角は,点線や括弧など,アクチュアルに決して触る事のできない概念的な要素で構成されている.「概念を触る」という日常で体験できない表象を,差分を取ることで起こさせようという試みである.
佐藤雅彦,菅俊一,石川将也『差分』

「差分」が示すような視覚によって,新たな触覚を生み出すような統御の回路がヒトの身体に原始からあるとすると,
触覚の絶対知と視覚の差分とをあわせた回路を作ること.
とすると,
ディスプレイ上のイメージの「動き」=映像は関係ないことになるのではないか?

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