スライド:情報美学概論A 第7回|メタファーからリテラルへ:カーソルをめぐる冒険

東京藝術大学 芸術情報センター:情報美学概論A
第7回 メタファーからリテラルへ:カーソルをめぐる冒険→スライド

講義に関連するテキストとメモ
あいだを移行する「↑」:エキソニモ《断末魔ウス》,《↑》におけるカーソルの諸相
メモ:カーソルはメタファーではない

ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと

カーソルめぐる3つの作品
渡邊恵太《自己喪失》2002
エキソニモ《断末魔ウス》2007
エキソニモ《gotexists.com》2009

参考資料
生きていることの科学 (講談社現代新書)
属性
接続された心―インターネット時代のアイデンティティ
サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2 (河出文庫)
スタイルの詩学―倫理学と美学の交叉(キアスム) (叢書 倫理学のフロンティア)
創造性の宇宙
メディアの実験集「モノサシに目印」 コトバ/デザイン/アソビ (Web Designing BOOKS)
行動を説明する―因果の世界における理由 (双書現代哲学)
Web Designing (ウェブデザイニング) 2010年 07月号 [雑誌]

コメントのコメント
カーソルについての講義のコメントに対するコメント

終えて
エキソニモ《断末魔ウス》からどうしても離れられない.秋庭史典『あたらしい美学をつくる』に出てくるの,自然計算に基づいたあたらしい美学の枠組みにもとても惹かれるのだけれど,エキソニモの作品群はそこから少しはみ出たところにあるのではないだろうか.エキソニモの作品群は計算に基づきながら,いや基づくからこその「痛み=傷み」を生み出し,そこから「痛み=痛み」を伴った「永遠に死なない存在」を提示しているような気がする.

もちろん秋庭さんの枠組みは「美」のありかを示すものだから,個々の作品において,そこから逸脱していることをどうこういうのは的外れのことなのだけど.でも,秋庭さんの示す枠組みとの距離を確かめることで,エキソニモの作品群の位置が明確になるような気がするし,それはまたエキソニモの作品群に強く惹かれている自分の立ち位置の確認にもなると思う.

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