あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──
日本映像学会の学会誌『映像学』85号に「あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──」が掲載されました.
この論文は「カーソル」の性質を,エキソニモさんの《断末魔ウス》と《↑》から考えたものです.
この論文は「カーソル」の性質を,エキソニモさんの《断末魔ウス》と《↑》から考えたものです.
はじめに
本論考が考察の対象とするのは、ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である。とはいえ一口にカーソルといっても、それは CUI(コマンド・ライン・インターフェイス)にもあり、GUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)にもあり、iPad に代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように、その現れ方も一様ではない。そこで本論考はさしあたり、GUI におけるカーソルに焦点を絞る。なぜなら、四半世紀のあいだ、私たちとコンピュータとを結びつけてきたのは GUI だからである。GUI でカーソルは手の「拡張」やマウスの「分身」として機能して、人間とコンピュータというふたつの異なる存在を結びつけてきたと考えられている。しかし、私たちはカーソルのことをどれほど理解しているのであろうか。「拡張」や「分身」という言葉でカーソルを理解したつもりになっているだけではないだろうか。そこで、まず GUI におけるカーソルが曖昧で多くの「わからなさ」を抱えたイメージであることを確認する。そして、カーソルを「中途半端な存在」として受け入れるエキソニモによるふたつの作品、《断末魔ウス》(2007)と《↑》(2010)を論じる。この作品の考察から、カーソルが現実世界と仮想世界との「あいだ」を作り出し、その「あいだ」を移行していく存在であることを明らかにする。興味ありましたら,本当は学会誌を手に入れて読んで頂きたいのですが,普通の書店で売っていないものなので,ドラフトをここにおいておきます.ドラフトなので,『映像学』に掲載されているものと若干異なります.もし引用される場合は,『映像学』を参照ください.『映像学』が手に入りづらい方はご連絡ください.