ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと

http://fuckyeahalbuquerque.tumblr.com/post/3990382105

コンピュータを介して出来上がってきているヒトの身体感覚.身体全てはいらない,一部でいい.いや,そこに想像力がはたらくから,一部の方がいいのかもしれない.

J.J.ギブソンの『視覚ワールドの知覚』に,「図式的知覚」と「真正的[literal]知覚」という言葉が出てくる.
5.視覚ワールドをどのように知覚しているかという問題は,ふたつに分けて別々に考えることができる,ひとつは,実質的あるいは空間的な世界の知覚の問題である.もうひとつは,われわれが通常,注意を向ける有用で意義のある知覚である.最初の世界は,色,きめ,面,縁,傾斜,形,隙間の世界である.第2の世界は,われわれがふだん関心をむける馴染み深い世界であり,物,場所,人々,信号,書かれたシンボルの世界である.前者では,程度の差はあれ,われわれが体験する背景は一定であり,姿勢の維持と移動のための支えがある.ところが後者では,そのとき何をしているかによって刻一刻と変わる.意義のあるものを含んだ世界は,一度にすべてに注意を向けるには複雑すぎるので,その知覚は選択的である.ある種の特徴は著しく目立ち,その他の特徴は無視される.この事実のため,われわれの知覚は歪められ,欺かれると言われることがある.この種の知覚を図式的 schematic とよぼう.これに対して,最初に挙げた種類の知覚は真正的 literal とよべるだろう.
図式的知覚を完全に理解するに先だって,真正的知覚を理解しなければならない.なぜなら真正的知覚は,すべての体験に対する基本的な印象のレパートリーを提供するからである.(p.12) 
今までヒトは図式的にコンピュータを理解しようというか,使いこなそうとしてきたのではないだろうか.なるべく馴染み深い世界をコンピュータに持ち込むという発想,デスクトップ・メタファー.しかし,近頃はコンピュータをより真正的[リテラル]に把握しようという動きがあるように思われる.

先にヒトの身体を一部だけコンピュータに映したほうが,想像力がはたらくからいいのではないかと書いた.けれども,そこでは想像力がはたらいているのではないのかもしれない.ヒトとコンピュータとの関係の中で,上のイメージの「手」の形をしたアイコンまたはカーソルは,ヒトが行為していくために必要な基本的なレパートリーを示しているだけなのかもしれない.想像力以前の,シンボル以前のイメージ.ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと.これが今のメディアアートで求められていることなのではないだろうか.

このブログの人気の投稿

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

美術手帖(2017年9月号)にHouxo Que個展「S H I N E」のレビューを寄稿

新視覚芸術研究会第4回シンポジウム「デジタル時代の次元の折り重なり」の個人的振り返り

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(1)

「テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶」の進捗状況&シンポジウム再告知

デジタル時代の物質性 あるいは 単にPhotoshopのブラシ あるいは 単にブラシ

授業ノート:ディスプレイ時代の芸術作品_ネット公開用

能動と受動の間,具象と抽象の間にある←,カーソル

小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトーク:本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか