インターフェイスの哲学

インターフェイスについて考えることは何を意味するのだろうか.
常に,製品の後追いのような気がする.
でも,なぜ,マウスなり,iPhone が,
一般化し,ヒトの行為を規定するようになったのか.
一般化には,社会的な要因が大きく関わっていると思うが,
行為を規定するものを受け入れてしまうことは,
ヒトの生物的な部分が大きく関わっていると考える.
認識の自然化を押し進める哲学の中で,
インターフェイスを扱うことができるのか.

このように,認識論的作業を科学的探求の予備学ではなく,科学の中で行われる探求方法のチェック作業として考えようというのが「自然主義」のコアにある考え方だ.自然主義の基本テーゼは「第一哲学の拒否」,つまり,科学に先立って科学を基礎づける独自の特権的営みとして哲学を捉えるのはやめて,哲学的探求を科学の内に埋め込まれた,経験的探求の一コマとして考えましょう,ということだったのを思い出してほしい.(p.264)
戸田山和久『科学哲学の冒険:サイエンスの目的と方法をさぐる』

このブログの人気の投稿

「サブシンボリックな知能」と Doing with Images makes Symbols

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

画面分割と認知に関するメモ

『はじめて学ぶ芸術の教科書 写真2 現代写真ー行為・イメージ・態度』への寄稿

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(1)

2021~23年度科研費「生命の物質化・物質の生命化に関する理論調査と制作実践」成果報告会

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる