2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化 (3)

モノへの懐かしさを示す「アンティークモデル」の携帯電話

次に,携帯電話とスマートフォンのインターフェイスのちがいから「懐かしさ」を考えていきます.先に結論を言ってしまうと,携帯電話からスマートフォンというインターフェイスの変化はモバイル通信機器のひとつの変化を示すだけではなく,ヒトが使う道具の大きな転換点を示しているのです.それは,道具が徐々にモノのかたちをなくしていく,というとても大きな変化を示しているのです.人類はモノとともに長い時間を過ごしてきました.しかし,スマートフォンはヒトとモノとの別れを示しているのです.新海監督が2046年に保存した「アンティークモデル」の携帯電話はモノへの懐かしさを示しているともいえるのです.携帯電話は電話を「握る」やボタンを「押す」といったような,どこかモノを扱っている感じがしますが,スマートフォンはどうでしょうか.スマートフォンは「タッチ」という感じで,そこにあまりモノの存在を感じないのではないでしょうか.「タッチ」も「押す」という行為にちがいありません.けれど,「押す」と「タッチ」はどこかちがう感じがしないでしょうか.

携帯電話をスマートフォンに置き換えるきっかけとなったのはiPhoneです.iPhoneの前にも「スマートフォン」と呼ばれる高機能携帯電話は存在していました.それはガラケーよりも少し大きな液晶と物理的なキーボードを備えたものでした.そのようなガラケーとあまり変わらない「スマートフォン」のかたちを今のようなタッチ型インターフェイスに変えたのがiPhoneだったのです.2007年に当時アップル社のCEOであったスティーブ・ジョブスはiPhoneを初披露したプレゼンテーションで,物理的なキーボードはデザインを一度決めてしまったら変えることができないと批判します.あとからあたらしい機能をスマートフォンに導入したくなっても,キーボードを変えられないじゃないか,どうすればいいんだ,と聴衆に質問を投げかけます.それはこれまで誰も疑うことがなかった「物理的なボタン」の是非を問うものでした.ジョブズは大前提をひっくり返す解決策として,スマートフォンから物理的なキーボードを取り払い,その前面を大型の液晶タッチディスプレイにして,そこにキーボードをイメージとして表示すればいいと主張し,その具体的なかたちとして「iPhone」を提示しました.画面上のイメージならいかようにも変化させられるので,スマートフォンにあとから機能を追加しても,それにあわせたインターフェイスをユーザに提供することが可能になったのです.

一度決めたら変えることができない「物理的インターフェイス」とディスプレイ上のイメージでつくられる「変幻自在に変化する画像的インターフェイス」というふたつのあいだには大きなちがいがあります.再び,『SF映画で学ぶインタフェースデザイン』から引用します.


産業革命時代のユーザーは,その当時使用していたインタフェースで,直接的で機械敵なフィードバックを経験しています.たとえば,ユーザーがレバーを前方に押し出すと,機械はその動きを他の箇所の機械的な動きに転換します.原因と結果の因果関係は明白です.コンピュータ利用の幕開けとともに,原因と結果の間のフィードバックは,電子回路の上で起こる出来事に抽象化されました.ボタンを押すことにより,事実上無限の組合せの応答のうち1つを得ることになります.あるいは,何の応答も得られないという結果も起こり得るのです.この抽象化は,DOSプロンプトの時代まで続きました.(p.19) 
ネイサン・シェドロフ,クリストファー・ノエセル『SF映画で学ぶインタフェースデザイン』


携帯電話とスマートフォンのちがいは,「原因と結果の因果関係が明白」な物理的なインターフェイスと「原因と結果の因果関係が抽象化され」たイメージのインターフェイスのちがいと言うことができます.もちろん,携帯電話も電子機器ですから,機械的なボタンとちがって,ひとつのボタンがいくつもの役割を果たすことができます.その点ではタッチパネルのインターフェイスと同じです.また,タッチ型のインターフェイスも完全に原因と結果の因果関係が抽象化されているわけではありません.ジョブズがプレゼンテーションで示したことですが,アップル社はiPhoneのまえに,MacintoshというGUIをコンピュータの世界に一般させたパソコンを発表しています.ディスプレイ上のアイコンやメニューをカーソルでクリックしたり,ダブルクリックしたりするインターフェイスです.「呪文」のようなコマンドを書いてコンピュータを操作するDOSプロンプトとは異なり,GUIは「ボタン」や「スライダー」といった物理的なインターフェイスを模したパーツを「直接操作」して,コンピュータを制御することを可能にしました.GUIの「直接操作」は物理的なインターフェイスがもつ明白な因果関係をディスプレイに持ち込んだものです.しかし,それらはあくまでも「イメージ」ですから,そのイメージが示す機能と明白な因果関係もつ限りでは画面上のどこに配置してもよかったのです.この延長線上にマウスやキーボードといった物理的なデバイスが極力排除して,指で直接イメージを操作するタッチ型のインターフェイスがあるのです.だから,携帯電話とスマートフォンとのちがいは,それほど大きくなのかもしれません.けれど,携帯電話ではジョブズが指摘したようにボタンの位置は後から変えることができません.それはモノとして確かに存在しています.なので,携帯電話は原因と結果のフィードバックが明確なボタンを「押す」という行為から,そこにモノが存在して,それに触れているという感覚が生まれやすいのです.対して,スマートフォンは触れているものが抽象化された変幻自在に変化するイメージであるがゆえに,「タッチ」して情報を扱っているという感覚のみが前面にでてきて,そこにモノが存在することを意識することが難しくなっていると言えないでしょうか.

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化 (4)

このブログの人気の投稿

「サブシンボリックな知能」と Doing with Images makes Symbols

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

画面分割と認知に関するメモ

『はじめて学ぶ芸術の教科書 写真2 現代写真ー行為・イメージ・態度』への寄稿

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(1)

2021~23年度科研費「生命の物質化・物質の生命化に関する理論調査と制作実践」成果報告会

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる