「『薄さ』を与えられた平面」で使われなかったテキスト

きっかけから言えば,平面性という問題なんです.トランプは平面でできています.写真などをはじめとするイメージ画像というものは,平面であることが前提になっていますので,平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが,立体的な物は扱い難いんです.その意味で,テーブルとトランプという組み合わせは,イリュージョンを作りやすいということがあったんです.(pp.120-145)
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藤幡作品を考えるためのキーワードとして「平面」,「投影」,「重なり」があると考える.「投影」は「平面」を必要するし,「投影」すれば「平面」に「重なり」が生じる.「重なり」が生じた「平面」は立体なのではないかという疑問も起こる.

《Beyond Pages》と《未成熟なシンボル》の共通点.記号.行為と出来事.シンボルとオブジェクト.意味と無意味.

本という平面の重なりでできた物体.「平面の重なり」
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言語というある意味1次元な連なりが3次元のオブジェを作るのだが,それはひとつだけではなく,多くの可能性のなかのひとつであり,その可能性すべての言葉のつながりは2次元の地図を構成する.
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平面(?)→立体
「形をめぐる探検隊の残した地図」
ところがここに提示された地図というのはそこでの出来事,プロセスが二次元的に拡げられて示されている.例えば,ヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアなヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアな「ホット・プロセス」ではなく,ノンリニアに示された「コールド・プロセス」として示されているのだ. この図版はコンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれているのである.
密着する平面
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《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである.
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ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語にはコードなどなく,その場その場でそのテキストの真偽を決めつつ,場当たり的にコミュニケーションを行っていると主張する.ディヴィドソンの考えによれば,私たちは常に手探りでコミュニケーションを行っていることになるのだが,それは藤幡が「形」をめぐって行ったコンピュータとの対話そのものである.
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3次元化とはどういうことか.それはヒトの中に推論チェーンを作り,記号の全体論を作り上げることであり,同時に,その全体にヒトの身体を招き入れることである.
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GUI の平面性
アラン・ケイ:「重なるウィンドウ」
メタメディアとインタラクション
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このことを考えるためにGUIを開発したアラン・ケイの言葉の「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンを考えよう.そこでは,イメージや記号が身体によって操作されるうちに混じりあうことで,でヒトは世界を認識するということが言われる.
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半ば記号で,半ば物のひとつオブジェ
行為と出来事:インタラクション
コードなきコミュニケーション
記号の出来事化(立体化)
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スーパーフラットに影響を与えた
村上隆:アート
五十嵐太郎:建築
僕は,このテーブルを設計しているときに,これ自体がどのようにして成立しているのかがなるべくわからないほうがよいと思っていた.構造的に特殊なことをしているけれど,その構造の原理は極力見えないほうが,使う人にとっては居心地がいいと思っていたからである.そういうことが僕のなかで,自然だと感じている.

僕は自然のよさというのは,ルールがあるようで実はルールが見えないところだと思う.たとえば,日常生活のなかで,天気を気にして生活している人は少ないと思う.ある日突然,雹(ひょう)が降ってきても,一瞬は驚くのだけれど,それについて特に解明されなくても,「まあ,こんな日もあるのかな」と,そんな感じで受け入れる.そういうことは,日常生活のなかで普通にある気がする.その日常的な普通さ,あるいは,自然さのなかに溶け込んでいくようなものを考えていきたい.たとえば,《テーブル》の場合,とにかく原理とかルールがわからない感じがいいと思っていた.どう成り立っているのかよくわからないけれど「ここに,こうして存在しているのだから,まあ,こうこともあるんだろう」と思っていまうようなもの.成り立ちとかコンセプトなど,そういうことがあいまい状態でそこにあるので,それらを受け入れるとか受け入れないとか,そういう経験や主観で判断することは別のところで存在しているもの.このテーブルはそういうものをめざしている.
ちいさな図版のまとまりから建築について考えたこと,石上純也
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藤幡が示す「平面」は,コンピュータやケータイを通して,誰もがイメージを扱ってモノを操作するようになった現代の基盤になっているのだ.
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隙間はないが,異なる2つの存在があるのはわかる.インタラクションと身体.インタラクションは身体を平面に押しやる.モノとイメージとの隙間に身体が押しやられる.
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プロジェクションされる平面と,そこに生まれるもうひとつの平面.モノに密着するイメージ.モノとイメージとの隙間.モノとイメージとの隙間はあるのか? 「投影」は投影されたモノをスクリーンという「平面」にしてしまう.モノにイメージを密着させて,その性質を変えてしまうかのようにみせる.
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藤幡正樹はコンピュータ内のデータを中心として平面と立体とのあいだを行き来する.
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GUIは私たちに「at interface value」というすべては表面の出来事であるという価値観を与えた.村上とともにスーパーフラットを推し進めた東浩紀は,GUIがすべてが見えているイメージの効果であるという大きな認識論的転換を起こしたものであるだとしている.
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東が言及したタークルは,「at interface value」を生み出したマッキントッシュが,アイコンを使って「机の上」や私たちの対話によるコミュニケーションをシミュレートした世界では,世界をいじくりまわすことが重要だとして,レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」という概念を再評価している.

シミュレーション文化の中でブリコラージュを再評価することは,視覚化[ヴィジュアライゼーション]や,ヴァーチャル・オブジェクトを操作して直観を発達させることを,新たに重要視することでもある.あらかじめ規定されたルール一式に沿っていかねばならないのではなく,コンピュータ・ユーザーはどんどんシミュレートされたマイクロワールドをいじくりまわせばよい.そうするうちに,マイクロワールドとインタラクトしながら,ユーザーは何がどう働くのかを覚える8.

ブリコラージュとは,「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」ことであり,そこでの各要素は「具体的で同時に潜在的ないくつもの関係の集合を代表する.それらは操作媒体」と考えられる9.シミュレートされた世界の中で,ユーザは,ディスプレイに表示される具体的なイメージで構成された環境をいじくりまわし,そのことにコンピュータが反応して新たなイメージを表示する.この繰り返しの中で,ヒトは,その環境を理解し,コンピュータとのコミュニケーションを行っていく.すべては,ディスプレイに見えているありあわせのものを「操作」することで行われていく.私たちは,次々に,マウスとキーボード使って,イメージを操作していく.タークルは,ブリコラージュという概念を再評価することで,ヒトが自分の手でコンピュータの環境を操作することの重要性を示している.逆に,このことを東が言及していないことは,彼がヒトの行為のレベルを記号のレベルよりも低くみていることを端的に示しているといえる.このタークルの考えから,東が指摘する「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」を満たされた新しい表面を成立には,「操作」というヒトの行為が深く関わっていると考えることができる.
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《禁断の果実》は,ステレオリソグラフィーという新しい技術を使いながら,記述されたデータを中心に立体と平面とを行き来する作品なのだ.
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フラットベッドではあらゆるモノがコラージュされる.あらゆるものが平面に重ねられる.垂直ではなく,水平であること.机の上に映像をプロジェクションするように.デュシャンの大ガラスはヒトが直立姿勢で知覚した世界を表しているのではなく,情報のマトリックスが垂直状態に都合よく置かれているのだ.デュシャンのレディメイドは90度,モノを回転させる.
「平面的な物はイメージと実体とのあいだの行き来が可能です」という藤幡の言葉.モノをどんどんキャンバスという平面の上にコラージュしていくラウシェンバーグ.藤幡とラウシェンバーグの比較を行いたいわけではない.平面にいろいろとコラージュしていくことの意味を考えたい.「フラットベット絵画平面」における「平面」は,なんでも受け入れる概念的な「平面」である.デュシャンやラウシェンバーグは,この「平面」にモノを置いていく.どれだけモノをおいても平面でありつづける不思議な平面を作っていく.《禁断の果実》では「平面」を重ねて立体にしようとする.重さを感じさせない立体ができがある.それは重さを持たない概念が具体化したモノだからである.
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その際に,藤幡はコンピュータと共に行った行為のプロセスが二次元的に拡げられ1枚の地図になっていると指摘する.コンピュータは作品として平面や立体として出力されるデータだけではなく,そのデータのプロセスもひとつのデータとして記録している.コンピュータはあらゆる行為や出来事,そしてそこから派生するものをデータとして記録している.
藤幡はこの履歴を「形をめぐる探検隊が残した地図」と呼ぶ.コンピュータとともに形を探った出来事が2次元化される.それは「コンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれている」ものである.《禁断の果実》のオブジェには,その形へとたどり着くための地図という平面が付随している.立体は行為と出来事のレベルで平面と密着しているのである.藤幡正樹は,この地図を頼りにコンピュータ内のデータを中心として平面と立体とのあいだを行き来する.

ここで例のコーズィプスキーの言葉が,最大限に押し広げた形で捉え直されることになる.彼は地図は土地に非ずと主張した.この言葉を今われわれが採っている広いパースペクティヴに置いた時,地図とは結局,”土地”における差異の知らせを組織した,一種の最終結果としての差異集合であるということができはしまいか.コーズィプスキーの使った”地図”のメタファーは実に便利なもので,事実多くの人間に役立ってきたわけだが,最後まで煮つめてみれば,結局彼は結果は原因に非ずと主張したにすぎない.
この事実(あるしなやかなシステムに両方が取り込まれたとき,原因と結果との間に差異が生じること)の上に,〈変換〉または〈コード化〉coding と呼ばれるプロセスの存在が措定されることになる.(p.149)
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《Beyond Pages ビヨンド・ページズ》
90年代当初,コンピュータによってもたらされようとしている新しい知的な体験のことを「マルチメディア」と呼んでいた.これはそれ以前の書籍に対して,背後にある知識データベースである画像と音声をコンピュータの上でインタラクティブに扱うことを可能にし,新しい方法で人間の知性を増幅するものであると考えられていた.この作品は,こうした状況の中で書籍の挑戦をコンピュータ上に非常に具体的に実現することで,イメージと言語とインタラクションのあいだに発生する問題を提起している.
机の上のイメージの本は,見るからに「絵本」であり,例えば「林檎」のページでは,左にイメージがあり,右には林檎と書いてあるが,ひとたびユーザーが特殊なペンで,林檎に触れると,ページがめくられてイメージの林檎が食べられてしまう.これはある種の事件であるが,この事件はユーザー自身の行為によって発生した事件であるのだ.このとき,ユーザーにとって「林檎」という概念は,これまで持っていた「いわゆる林檎」に加えて,この事件における「林檎」もまたその範疇に加えるかべきかどうかを問われることになるのである.さまざまな予想外の反応によって確かに楽しい作品であるにもかかわらず,記号論的には新しい問題を提起した作品と言えるのである.(p.236)
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デザイナーの戸田ツトムはGUIについて次のように書いている.

コンピュータはひとつのディスプレイ上に,概念的な平面とゴミ箱が置かれた街角のような空間を同時に混在させる.空間性不要のウィンドウでもスクロールツールによって絶対の平面内をなぜか文字列がパンする.同様に「平面」上でウィンドウが重なり,後に回り,別のウィンドウの上を通過したり・・・.平面に依存し得ない状況の様々である.「絶対の平面・空間に置かれた平面・深さと線遠近法的な性格をある程度もった平面」,これらの言わば乱層するデスクトップを,ユーザーはそれほどのストレスや戸惑いを感じることなく受容し得た.これは驚くべきことではななかったか?
二次元という概念では捉え得ない,新しい視覚環境「平面」の登場だった.
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藤幡はすべてが見えるイメージの効果にすぎないになる前から,コンピュータに深く関わっている.それゆえに,その表面に密着するかたちで「行為と出来事の地図」が存在することを知っているのである.さらに,その地図が描く世界はまっさらな論理空間であることも知っている.その論理空間では3次元のオブジェを文字で記述することできるも知っている.藤幡は,GUIが表示している「不可思議さ」がなぜ生まれるのかを知っているのである.GUIの表面で起こっている記号とモノとの振幅運動を別の形で表したのが《Beyond Pagae》である.GUIは,コンピュータの論理世界をヒトが親しんでいる物理的世界にできるだけ沿うように作り上げた.対して,藤幡はGUIと同じ手法ではあるが,論理世界を通すことで物理世界の認識を変えてしまう記号の全体的関係を《Beyond Pages》で作り上げたのだ.
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藤幡はCGを作成する際に自分が体験していた地図を立体化して私たちは提示する.なぜ地図を立体化する必要があったのだろうか.それは時間を地図を中に取り入れるためである.時間を捨象してフラットになっていた地図では,私たちは出来事を出来事として体験することはできない.
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それは,論理の関係から因果関係への変換である.コンピュータは論理の世界であるから,そこには時間がない.しかし,ヒトは時間の中に生きている.論理を出来事にするためには時間を導入しなければならない.二次元を模擬的に三次元化しなければならないのである.そのために採られる技法が平面を重ねることなのだ.
藤幡は記号を出来事にしてしまう.それは記号,そしてそれをになっている映像という平面の中にヒトの身体を招き入れて立体化していくことである.記号は立体化し出来事となるが,同時に,身体はコンピュータにデータとして取り入れられて記号になっている.つまり,身体が平面化される.《Beyond Pages》で起きていることは,モノとイメージとの隙間に存在する平面に身体を招き入れて,ヒトとコンピュータとのあいだで生じる行為と出来事を擬似的に立体化することなのである.
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藤幡は,モノとしてのトランプとイメージとしてのトランプを並べて置くことで,ヒトの身体を作品に招き入れインタクラクションを生み出している.ここでは,イメージがモノになるのではなく,モノがイメージとして扱われる.立体的なモノを平面に投影されているイメージと等価に扱うようになる.そうするとモノとしてトランプは物理法則に基づいた動きしかできないことに気づく.イメージのトランプの動きの自由さにはかなわない.モノとしてのトランプの方がひとつの法則に縛られているということで「未成熟なシンボル」になる.
つまり,そこにあるモノとしてのトランプも,プロジェクションされたイメージとしてのトランプのどちらもが「未成熟なシンボル」ということになる.では,どちらが成熟できるか.それはコンピュータとのつながりを持つことができるイメージとしてのトランプであろう.物理法則から逃れながら,ヒトが操作できるようになることで,イメージとしてのトランプは成熟したシンボルとなる.
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そして,石上純也は構造よりも表層のインターフェイスのみを自然として受け入れてもらいたいということを書いている.これは《未成熟なシンボル》における藤幡が平面のモノとイメージとの重なりに見出した感覚に近いと考えられる.なぜなら,藤幡はコンピュータを使ってくることで見えてくる構造を,コンピュータを使うことなく,テーブルの表面に実現したのであるが,それはコンピュータの構造を自然な現象として提示することであったと言えるからだ.インタラクティブが当たり前になったいま,私たちはもはやインタラクティブに驚くことはない.逆に,藤幡の作品がインタラクティブでないことに驚く.ここでは藤幡の作品を含めメディアアートはインタラクティブであること,ひいては,コンピュータはインタラクティブであることが内面化されているのだ.コンピュータが提示する環境が自然となったとも言える.そんな環境を藤幡はひっくり返す.私たちはイメージをモノのように扱うようになっているのなら,それをそのまま見せてしまおうと.コンピュータがGUIで作り出した不可思議な平面をコンピュータを使わずに表現してしまうこと.私たちはますます表面的,スーパーフラットな世界に進んでいるように見えるけれど,実は,そこはフラットどころか,立体でもない,ただのまっさらな論理空間であり,なんでも可能な場所なのだということを,藤幡はモノとイメージとの重なりで見せる.それは自然としての論理空間を提示するということでもある.石上は構造は見てもらわなくてもいいと言っていた.藤幡も構造は見せない.いや,ここでは構造自体がインターフェイスの平面になっているのである.
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それは自然としての論理空間を提示するということでもある.石上は構造は見てもらわなくてもいいと言っていた.藤幡も構造は見せない.いや,ここでは構造自体がインターフェイスの平面になっているのである.
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コンピュータのルールはまだこの段階にまで来ていない.藤幡は多くのインタラクティブな作品を作る中でこのことに気づいた.だから,《未成熟なシンボル》というインタラクティブではない作品を作ることになった,
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藤幡はすべてが見えるイメージの効果にすぎないになる前から,コンピュータに深く関わっている.コンピュータの論理空間では3次元のオブジェを文字で記述することできるも知っている.藤幡はGUIが表示している「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」がなぜ生まれるのかを知っているのである.
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「投影」は「平面」を必要する.「投影」すれば「平面」にイメージが「重なる」.「重なり」が生じた「平面」は立体なのではないか.「平面」の「重なり」で生じた立体は,私たちと同じように「重力」の影響を受けるのか.モノにイメージを直接「投影」する.モノとイメージとが重なりひとつの「平面」となる.モノとイメージとの「重なり」の隙間に「重力」は影響するのか.プロジェクションが作る平面.「投影」によって,どこにでも生じるもうひとつの「平面」.「平面」の「重なり」.これら3つのキーワードから藤幡作品における「平面」の意味を考えていく.
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藤幡と建畠は《禁断の果実》が重力と関係無いがゆえに奇妙と言う.平面を重ねて作られた立体に重さが感じられない.ここで平面の重なりと重力との関係を考えるために,レオ・スタインバーグの「フラットベット絵画平面」を参照したい.スタインバーグは,抽象表現主義以降に登場したロバート・ラウシェンバーグの絵画が,ヒトの直立姿勢にあわせて垂直に壁にかけられるというよりも,水平な平台(フラットベッド)のようなものとして現れていると指摘した.この平台の上には,時計や梯子など様々なモノや印刷物などがコラージュされる.スタインバーグの「フラットベッド絵画平面」を引き継いだのが,哲学者のジル・ドゥルーズであった.
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もちろんラウシェンバーグの作品ではモノはモノである.しかし,直立姿勢から解放された平面に置かれることでモノはデータのように重力の束縛から逃れた存在になるのだ.
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そして,自由に操作できるようになった「フラットベッド絵画平面」を重ねて立体にするがゆえに,重力を感じさせない彫刻ができがある.なぜなら,それはモノをデータ化する「フラットベッド絵画平面」もまたデータとして扱い,それを積み重ねることで具体化したモノだからである.
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レヴィのテキストにも「記号」とあるように《Beyond Pages》は記号論で語られることが多い.そこで,コンピュータに新しいインタラクティブな平面を持ち込んだグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)における記号という観点から《Beyond Pages》を考えてみたい.
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GUI について興味深い議論をしている.東はジャック・ラカンとスラヴォイ・ジジェクの精神分析の理論をもとにして,シェリー・タークルが1990年代のコンピュータ文化を特徴づけるために用いた「at interface value」という語を分析する2.タークルによると,洗練された GUI 環境をもったアップル社のマッキントッシュが登場する以前のコンピュータ文化は,スクリーン上の情報を背後で操作する主体が問題になっていたのに対して,マッキントッシュが一般化した1980年代後半では,多くのユーザがスクリーンの背後に関心がなく,そこに映っているものがすべてであり,それらを「額面通りの価値(at face value)」で受け取るような態度になった3.東は背後を認めない「at interface value」に依存する主体を「インターフェイス的主体」と呼び,「インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも,他方で(言葉で)現実だと信じる4」と書いている.
東は,インターフェイス的主体の起源を1973年にパロアルト研究所で開発された Alto に設定する5.Alto 自体は従来のコマンドライン・ユーザ・インターフェイス(CUI)で動くものであったが,アラン・ケイを中心したグループが開発したオブジェクト指向型プログラミング言語 Smalltalk によって,Alto は GUI 環境を実装することになるからである.その Smalltalk の開発の中心を担ったアラン・ケイが,ユーザ・インターフェイスの開発の目的を「イメージを操作してシンボルを作る」と表現したことに対して,東は次の指摘をしている.
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《Beyond Pages》がある.GUIは,コンピュータの論理世界をヒトが親しんでいる物理的世界にできるだけ沿うように作り上げた.対して,藤幡はGUIと同じ手法ではあるが,論理世界を通すことで物理世界の認識を変えてしまう記号の関係を《Beyond Pages》で作り上げたのだ.


それゆえに《Beyond Pages》は,とてもスムーズに記号を拡張する.モノとイメージとのあいだに身体を入れ込んで,そこで新たな記号が生じる.モノとイメージのあいだに入り込んだ身体が新しい体験をする.これまでにない仕方で林檎を齧る.
ここまでは記号から見た《Beyond Pages》の理解である.GUIによって一般化し,《Beyond Pages》がより先鋭的な形で問題にしている新しい記号のあり方.しかし,記号からの理解では,記号が展開している平面についてはよくわからないままなのだ.
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《Beyond Pages》の体験者は「(映像であるがゆえに)半ば記号であり,(一定の枠内で働きかけ,変形させ,探索できるがゆえに)半ば物であって,1個の奇妙なオブジェ」を簡単に受け入れてしまう.なぜ私たちは目の前に起こっている不思議な出来事を受け入れてしまうのか.このことをコンピュータに新しいインタラクティブな操作方法を持ち込み,そして多くの人に受け入れられたグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)から考えてみよう.
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哲学者の東浩紀は,『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』の中で,現在のユーザ・インターフェイスの主流を占めている GUI について興味深い議論をしている.東は,ジャック・ラカンとスラヴォイ・ジジェクの精神分析の理論をもとにして,シェリー・タークルが1990年代のコンピュータ文化を特徴づけるために用いた「at interface value」という語を分析する2.タークルによると,洗練された GUI 環境をもったアップル社のマッキントッシュが登場する以前のコンピュータ文化は,スクリーン上の情報を背後で操作する主体が問題になっていたのに対して,マッキントッシュが一般化した1980年代後半では,多くのユーザがスクリーンの背後に関心がなく,そこに映っているものがすべてであり,それらを「額面通りの価値(at face value)」で受け取るような態度になった3.東は,この背後を認めない「at interface value」に依存する主体を「インターフェイス的主体」と呼び,「インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも,他方で(言葉で)現実だと信じる4」と書いている.このインターフェイス的主体の起源を,東は1973年にパロアルト研究所で開発された Alto に設定する5.Alto 自体は従来のコマンドライン・ユーザ・インターフェイス(CUI)で動くものであったが,アラン・ケイを中心したグループが開発したオブジェクト指向型プログラミング言語 Smalltalk によって,Alto は GUI 環境を実装することになるからである.アラン・ケイが,ユーザ・インターフェイスの開発の目的を「イメージを操作してシンボルを作る」と表現したことに対して,東は次の指摘をしている.
イメージによってシンボルを操作すること --- つまり,スクリーンの上の記号,エクリチュールを操作して「見えないもの」を扱うこと,この単純な発想は,おそらく見た目よりはるかに大きな認識論的な変化を通過している.ラカンは前述のように,イメージをシンボルへ飜訳することだけを考えていた.「見えるもの」を「見えないもの」によって,つまり経験されたもの(現象)を超越論的条件によって基礎づけようとするその企ては,哲学的伝統にきわめて忠実なものだ.しかし GUI の開発者たちはむしろ,見えるものと見えないものとが区別されないスクリーン,イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない「エクリチュール」に満たされた,新たな表面の概念から出発しているように見える6.
東は,GUI 以前と以降にひとつの断絶をみている.この断絶ゆえに,スクリーンの背後を認めない「インターフェイス的主体」が生まれるというのが,東の仮説である.東は,「見えるもの」と「見ないもの」の区別や,「目」と「言葉」との違いにはとても敏感である.だからこそ,ケイの「イメージを操作したシンボルを作る」という言葉に反応しただが,ここでは,もうひとつの「操作」ということが掲げられている.確かに,東も引用の中で,「イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない」ということ述べているが,「操作」の扱いは「イメージ」と「シンボル」に比べて,明らかに低い.それは,近代では分割されていたイメージとシンボルが,ポストモダン化した世界では,「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」になったという記号レベルの「きわめてラディカルな変容」を示すことに,東の目的が設定されていたからである7.そして,東の議論は,彼自身がたびたび書いているように,コンピュータ以前のメディア,主に映画に支えられた精神分析の理論に拠っていることから,「操作」というヒトの行為のレベルがどうしてもこぼれ落ちてしまっているのではないだろうか.

東が言及したタークルは,「at interface value」を生み出したマッキントッシュによる,アイコンを使って「机の上」や私たちの対話によるコミュニケーションをシミュレートした世界では,世界をいじくりまわすことが重要だとして,レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」という概念を再評価している.
シミュレーション文化の中でブリコラージュを再評価することは,視覚化[ヴィジュアライゼーション]や,ヴァーチャル・オブジェクトを操作して直観を発達させることを,新たに重要視することでもある.あらかじめ規定されたルール一式に沿っていかねばならないのではなく,コンピュータ・ユーザーはどんどんシミュレートされたマイクロワールドをいじくりまわせばよい.そうするうちに,マイクロワールドとインタラクトしながら,ユーザーは何がどう働くのかを覚える8.
ブリコラージュとは,「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」ことであり,そこでの各要素は「具体的で同時に潜在的ないくつもの関係の集合を代表する.それらは操作媒体」と考えられる9.シミュレートされた世界の中で,ユーザは,ディスプレイに表示される具体的なイメージで構成された環境をいじくりまわし,そのことにコンピュータが反応して新たなイメージを表示する.この繰り返しの中で,ヒトは,その環境を理解し,コンピュータとのコミュニケーションを行っていく.すべては,ディスプレイに見えているありあわせのものを「操作」することで行われていく.私たちは,次々に,マウスとキーボード使って,イメージを操作していく.タークルは,ブリコラージュという概念を再評価することで,ヒトが自分の手でコンピュータの環境を操作することの重要性を示している.逆に,このことを東が言及していないことは,彼がヒトの行為のレベルを記号のレベルよりも低くみていることを端的に示しているといえる.このタークルの考えから,東が指摘する「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」を満たされた新しい表面を成立には,「操作」というヒトの行為が深く関わっていると考えることができる.
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GUIによって一般化し,《Beyond Pages》がより先鋭的な形で新しい記号のあり方を問題にしている.
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最後に藤幡がコンピュータとの対話の中で考えてきた「平面」が,「スーパーフラット」という2000年代の美術・建築の世界で大きな影響力をもった概念と相同性があることを指摘する.そして,「メディアアーティスト」と呼ばれることが多い藤幡正樹が,「平面」というアートにとって最も古い問題のひとつをコンピュータという新しいメディアを使って実験していることを示す.
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データを中心として,立体と平面とのあいだを行き来するなかで,「形」が出来上がっていく.「形」をめぐる行為と出来事は,多くの選択によって成り立っている.その行為・出来事を選ぶ/選ばないの積み重ね.ある形が生じたとして,形をめぐる選択が多くの行われる.見知らぬ土地で,経験したことがない出来事が起こり,その真偽を毎回手探りで探っていかなければならない.そんな行為と出来事の履歴の集まりが平面を作る.その平面から多くの立体が生まれる.
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この展覧会はメディアアートの最先端を示す展覧会であるはずなのに5作品+写真作品の中でインタラクティブなのは最も古い作品のビヨンド・ページズだけなんですよこれは何を意味するんでしょねこれはあとモレルのパノラマというパノラマや鏡という現実世界の間違いをコンピュータによって修正した作品に対して人ができるのはただ写り込むことだけだし未成熟なシンボルという作品におかれましては仮想のトランプが机の上を飛び回る作品なんだけどえーとこれってただのアニメーションだったりしますよこれがいやまじでしかし考えてみればかつて藤幡さんがコンピュータ・グラフィック作品を作っていたときだってそれはそのコンピュータ計算によって作り出す空間がまだ誰も見たこともない無菌室のようにノイズレスでそのうえ重力レスな現実以上に完全な空間だったわけでだからこそそこに完全な「彫刻」としてイメージを作っていたのだと思うのだよなそれは何もコンピュータが登場してはじめて生まれたものではなくてたとえば藤幡さんにとってのアイドルであるタイガー立石さんや倉俣史朗さんの作品を見れば見える人にとっては最初か……プハーッ!

平面の積み重ねで出来たオブジェ《禁断の果実》.
「なんでここにこれがあるのかよくわからないが,ここにあるのだから,受け入れてしまおう」
《未成熟なシンボル》もそうだ.身体レベルでこのことを受け入れてしまう.
《Beyond Pagea》は少し違う.この作品はインタラクティブでかあるがゆえに,身体がモノとイメージとの隙間に入り込んでいるからだ.
《禁断の果実》と《未成熟なシンボル》は,身体が入り込む余地がないほど投影した平面を重ねる.
身体は目の前にあるなんだかわからないものに入り込めないがゆえに,それが示しているモノとイメージとの関係を感じることができる.このモノとイメージとの関係は,コンピュータによって私たちに差し出されたなんでもありの「平面」そのものであり,かつその「平面」からでてきたオブジェである.
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垂直に提示されるのであれ,水平に提示されるのであれ,イメージは二次元という概念に支えられてきた.藤幡も「写真などをはじめとするイメージ画像というものは,平面であることが前提になっています」と述べている.しかし,GUI はウィンドウの重なりに象徴されるように「二次元という概念では捉え得ない,新しい視覚環境「平面」」として私たちの前に現れた.「半ば記号で半ば物」であったり,「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」であったりと,GUI の「デスクトップ」とともに新しい記号が生まれてきたことは確かである.それととも記号を支える平面も二次元のように見えながら,全く新しい「平面」が導入されていたと考えられる.私たちは「新しい記号」を受容したことに満足して,新しい「平面」に関しては無知なままなのである.記号論的な理解では,記号が展開している平面についてはよくわからないままなのだ.《Beyond Pages》のインスタレーション空間全体から考えると,ここには GUI によって導入された「デスクトップ」という新しい「平面」を理解するための手がかりが提示されているのだ.
ーー
机の上にプロジェクションされているのが「本」であること.これがモノの平面化を表している.平面化した本に対して,人間はペンもってあたかもそこにモノとしての本があるかのように行為をする.しかし,手にもっているペンもあくまでもペンのようなものである.ここでは状況が「本」と「ペン」との関係における行為を人間に与えることになる.実際のモノは,そこでの行為のためにふさわしくない.けれど,「木製の机が部屋にある」という状況から人間はそれらのモノにはふさわしくない行為をするのだ.藤幡は状況を作り出すことで,人間の身体を作品に自然と招き入れる.
ーー
しかし,ここで机の上に投影されている「本」には重なりがない.机の天板に隙間なく重ねられている本の映像.インタラクションの手前に留まることが大切である.


本はモノであるが,それはページという平面の重なりでできている.
ここで,投影されている本の薄さに戸惑ってみよう.それは机の木の天板に重ねられている.

この「本」を受け入れた瞬間,インタラクションがはじまる
ーー
この「本」を受け入れる瞬間に何が起こっているのか.そこでは,モノとイメージとの間,立体を作り出す平面の重なりのあいだに身体が入り込むのだ.モノとイメージのあいだに入り込んだ身体が新しい体験をする.これまでにない仕方で林檎を齧るのだ.
そして,身体を擬似的に平面化することで記号との重なりを作り出し,記号を立体化し出来事とすること.それは身体をコンピュータにデータとして取り入れて記号に変換することを意味する.つまり,作品を構成する壁や木製の机に映像が投影され,モノとイメージが重なることで,目の前に「机の上」が二次元では捉えることができない「デスクトップ」という薄い層が集積した新しい「平面」に変換されるのだ.
ーー
藤幡は,自分がメディアアーティストと認識されていること,コンピュータの操作が一般化していることを利用する.イメージをモノのようにあつかっていることを利用し,批判する.
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それはただ単にインタラクティブでないということだけではない.平面は身体を招き入れないという意味では,平面のままだが,平面的なモノであるトランプとプロジェクションされたトランプのイメージとの重なりによって不可思議な世界が生まれる..
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藤幡正樹が「投影」の意味を考えることで投げかけた《未成熟なシンボル》における平面への問いを,村上隆が提唱した「スーパーフラット」から考えてみたい.村上隆の「スーパーフラット」は2000年に行われた展覧会で大々的に提唱された.それに対して,藤幡の《未成熟なシンボル》は2006年の作品である.また藤幡の作品の平面性を考えるために取り上げた作品はいずれも2000年前のものである(《禁断の果実》は1991年,《Beyond Pages》は1996年).作品の発表年だけをみれば,藤幡の作品のスーパーフラットとはずれている.
だが,スーパーフラットはGUIの不可思議な平面をはじめとするコンピュータに影響されていることは確かなことである.コンピュータはまさに藤幡が探求してきた世界である.また,藤幡はそのアーティストとしてのキャリアをアニメーションからスタートさせていることからも,藤幡とスーパーフラットとのあいだは時期のずれほど大きな隔たりはないと思われる.しかし,村上のスーパーフラットがそのまま藤幡の平面を説明できるかというとそれは難しいと言わざるを得ない.藤幡はコンピュータを知りすぎているのである.平面と立体とがデータを介して同一の存在として扱われるのだ.
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この作品では,藤幡は自分がメディアアーティストと認識されていることを利用しているのだ.きっとインタラクティブだから,イメージのトランプを動かせるはず.しかし動かせない.では,モノとしてのトランプに仕掛けがあるはず.仕掛けはどこにもない.鑑賞者が作品がインタラクティブなのだと思わせることが仕掛けと言えば,仕掛けなのかもしれない.これは.イメージをモノのようにあつかっていることへの批判なのだ.
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この環境を藤幡はひっくり返す.私たちはイメージをモノのように扱うようになっているのなら,それをそのまま見せてしまおうとする.コンピュータが GUI で作り出した「デスクトップ」という不可思議な平面をコンピュータを使わずに机の上に表現してしまうこと.《未成熟なシンボル》はインタラクティブでないことで,コンピュータからのルールが存在しない.インタラクティブであることは,コンピュータが設定したルールに従うことである.このルールは今のところ自然の複雑さには適わない.作品を体験しているうちにルールが「ああすればこうなる」と理解されてしまう.《未成熟なシンボル》ではモノとプロジェクションされたイメージが机の上にあるだけなので,ここでこのふたつの存在をどう扱うかは,作品の体験者が現実世界の物理法則の中で自由に決めることができる.結局ここでも物理法則というルールに従っているではないかという思われるかもしれない.しかし,自然のルールはコンピュータが決めるルールとは異なるのだ.
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石上純也は構造よりも表層のインターフェイスのみを自然として受け入れてもらいたいとを書いている.これは《未成熟なシンボル》における藤幡が平面のモノとイメージとの重なりに見出した感覚に近いと考えられる.なぜなら,藤幡はコンピュータを使ってくることで見えてくる構造を,コンピュータを使うことなく,テーブルの表面に実現したのだが,それはコンピュータの構造を自然な現象として提示することであったと言えるからだ.インタラクティブが当たり前になったいま,私たちはもはやインタラクティブに驚くことはない.逆に,藤幡の作品がインタラクティブでないことに驚く.ここでは藤幡の作品を含めメディアアートはインタラクティブであること,ひいては,コンピュータはインタラクティブであることが内面化されているのだ.コンピュータが提示する環境が自然な現象として受け止められるようにとなったとも言える.
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建築におけるスーパーフラットを書いた五十嵐太郎は,2010年のいまこの概念を再考した際に,石上純也の《テーブル》(2005)を「まさにスーパーフラット」だとしている.この作品は,とても薄い天板をもつとても大きなテーブルなのだが,天板が本当にただの平面,スーパーフラットに見えるということだ.五十嵐は石上の作品のことを「表層のインターフェイスとそれを支える深層の構造」と評している.もともと建築は立体であるがゆえに,スーパーフラットではありえない.そこをどうにかしようと建築家はアイデアを重ねてきた.それは,藤幡の作品における立体と平面との行き来に似ているのである.村上のアートにおけるスーパーフラットよりも,五十嵐の建築におけるスーパーフラットの方が,藤幡作品における平面の問題と親和性があると思われる.
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そのために藤幡が採った手法が平面に映像を投影して,モノとイメージとを重ねるということであったのだ.ここではモノの表面に投影された映像がモノとイメージとのあいだをあいまいにしていくひとつの限りなく薄い平面を作り出すのだ.
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イメージのようなモノとして在る存在が周囲の空間を書き換えること.これは藤幡が《禁断の果実》から《Beyond Pages》を経て《未成熟なシンボル》に至るまで,追い求めてきたことに通じる.藤幡は映像の中にシミュレートした重力の表現を入れるのではなく,重力の中に映像を入れる.そのために《未成熟なシンボル》で,藤幡は自分がメディアアーティストと認識されていることを利用している.きっとインタラクティブだから,イメージのトランプを動かせるはず.しかし動かせない.では,モノとしてのトランプに仕掛けがあるはず.仕掛けはどこにもない.鑑賞者が作品がインタラクティブなのだと思わせることが仕掛けと言えば,仕掛けなのかもしれない.これは.イメージをモノのように扱っていることへの批判なのだ.一度映像はモノではなく,モノは映像ではないとこのふたつの存在のあいだに明確に境界性が引かれる.しかし,実物と映像のトランプと戯れていくうちに,境界線は曖昧になっていく.
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平面に「薄さ」を与えて,「薄さ」を組み立てる

藤幡は平面に「薄さ」を与えて,「薄さ」を組み立てる.

藤幡の平面の「薄さ」を,マルセル・デュシャンの「アンフラマンス」と結びつけるのは別の機会で行うことにして,本稿では最後に藤幡と「スーパーフラット」との関係を考える.

スーパーフラットとの関係を考えるならば,この概念に哲学的な深みを与えた東浩紀が五十嵐の対談で次のように述べている.


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僕は自然のよさというのは,ルールがあるようで実はルールが見えないところだと思う.たとえば,日常生活のなかで,天気を気にして生活している人は少ないと思う.ある日突然,雹(ひょう)が降ってきても,一瞬は驚くのだけれど,それについて特に解明されなくても,「まあ,こんな日もあるのかな」と,そんな感じで受け入れる.そういうことは,日常生活のなかで普通にある気がする.その日常的な普通さ,あるいは,自然さのなかに溶け込んでいくようなものを考えていきたい.たとえば,《テーブル》の場合,とにかく原理とかルールがわからない感じがいいと思っていた.どう成り立っているのかよくわからないけれど「ここに,こうして存在しているのだから,まあ,こうこともあるんだろう」と思っていまうようなもの.成り立ちとかコンセプトなど,そういうことがあいまい状態でそこにあるので,それらを受け入れるとか受け入れないとか,そういう経験や主観で判断することは別のところで存在しているもの.このテーブルはそういうものをめざしている.(p.13)
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藤幡はコンピュータを使わずに,平面に映像を投影するというとても古い手法でモノとイメージとを重ねて,その境界線を曖昧にしていく.ここではモノの表面に投影された映像がモノとイメージとのあいだをあいまいにしていくひとつの限りなく薄い平面を作り出すのだ.
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スーパーフラットに関して,アーティストのレオ・スタインバーグ(一九二〇〜)が一九七二年に提唱した概念「フラットベッド」との類似も指摘されました.フラットベッドとは,版画と紙面をいっしょに水平に置いて圧着する平台印刷機のこと.けれども,フラットベッドがそのうえにいろいろなものを置いて,コラージュをおこなう水平な作業台だとれば,スーパーフラットはコンピュータの画面上の並置であり,すべての要素をデジタル化することで,モノの素材性を完全にはぎとる.つまり,大きい/小さいのスケール感も喪失したデータの世界といえるでしょう.
じっさい,村上の平面作品にも,そうした絵画のもつスケール感がないように思います.コンピュータで下図を作成していることもあるのでしょうが,いくら引きのばしても,曖昧にならない,限りなくクリアなまま,という印象を受けます.
フラットベッドは,上下のはっきりした絵画の制度にかかわる「垂直性」に対立する「水平性」の問題を提起しました.一方,スーパーフラットは,そうした水平や垂直の軸,あるいは透視画法の枠組も解体しており,データが漂う無重力の空間といえるのではないでしょうか.(p.162-163)

スーパーフラットとハイパーサーフェイスは,ともに脱三次元をめざしますが,前者は次元を下げて二・五次元へ,後者は次元を上げて四次元へ向かう.そして前者が文字どおりに平面的な印象をあたえるならば,後者はトポロジカルナぐにゃぐにゃの建築です.さらにいえば,前者はコンピュータのスクリーンを模倣するのにたいし,後者は画面内で生成される自由な造形の現実化を試みるのです.(pp.165-166)

筆者が東浩紀と対談したとき,彼は次のような興味深い発言をしています.

「スーパーフラット」というコンセプトがインパクトをもったのは,アニメーションの問題というより,モニターで見る感覚に関係すると思うのです.絵も写真もモニター上では同じ画像ですよね.両者の境界はデータ上のモーフィングでしかない.・・・・・・次元間往復のような発想が面白い,と.(美術手帳二〇〇三年十月号)

データから立体がそのままつくれるということ───こうした視点から考えると,ぐにゃぐにゃの模型をスキャンして,そのデータを建材の加工にまで連動しているフランク・ゲーリそれらを組み換えて設計するMVRDVのプロジェクトなども,スーパーフラット的なデザインといえるかもしれません.(p.169)
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藤幡は映像を投影してモノとイメージとを重ね,重力の中に入れ込むである.
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コンピュータは,フラットベッド絵画平面をもデータ化してしまう.藤幡はここからスタートしている.

藤幡の作品をアートにおける新しい平面概念のひとつである「フラットベッド絵画平面」と,新しい平面をつくりだしたGUIとの関係から考察する.そして最後に,アートにおける最も新しい平面概念であり,大きな影響力を持ち続ける「スーパーフラット」と藤幡作品の平面との関係を示す.
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そう,重力の問題は,イメージ生成の問題と非常に密接な関係がある.特に,光学的な手法で作られてきたこれまでの映像と,コンピュータによって生成される映像のあいだには,大きな隔たりがあるのだが,一般的にはその隔たりを打ち消すような方向に作品制作が向かっている.しかし,もしここに新しい現実感を生み出す可能性があるのであれば,むしろその隔たりを際立たせる方向にこそ,表現者は向かうべきではないだろうか.(p.167)

重力の問題は初期のオブジェ《禁断の果実》からの藤幡が考えていることである.記号を操るコンピュータが作り出す重力のない世界でオブジェを作り,それを重力のある現実世界に持ち込むこと.その際に藤幡が使ったのが光で樹脂を堅め,立体を断面図:平面の重なりで作るステレオリソグラフィーという技術であった.ここで重ねられる平面の意味を,美術批評家のレオ・スタインバーグの「フラットベッド絵画平面」から考える.

イメージがどうやって生成されるのか? イメージがどのように読み取られるのか? ということを考えるときには,プロジェクションについて考えてていかなくてはいけないと思うんです.いままでイメージについて語るときは,投影という概念が入っていなかったと思います.(p.148)

投影の問題は,《Beyond Pages》と《未成熟なシンボル》の作品形態に関わっている.このふたつの作品はともに,机の上に液晶プロジェクターでイメージを投影している.ここでは,机というモノの上に投影されたイメージが重なることの意味を考えたい.しかし,ふたつの作品で投影が示すモノとイメージとの関係は少し異なる.なぜなら,《Beyond Pages》はインタラクティブな作品なのに対して,《未成熟なシンボル》はインタラクティブではないアニメーション作品だからだ.この違いから,私たちが普段から接しているコンピュータのディスプレイにひろがるインタラクティブな平面である GUI との関係で《Beyond Pages》を,テーブルの上に置かれた実物のトランプという平面から《未成熟なシンボル》をそれぞれ考える.
そして最後に,村上隆が提唱した「スーパーフラット」を,藤幡の作品が先取りしていたことを示す.そして,藤幡正樹が「平面」の可能性を探るという普遍的な行為を行ってきた「メディアアート」という枠組には収まらないアーティストであることを示す.
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のキーワードとして「重力」,「投影(プロジェクション)」,「重なり」をあげたい.「重力」と「投影」に関しては,藤幡自身が表現者が考えるべき問題として上げている.私はここに「重なり」を追加したい.なぜなら,投影は平面にイメージを重ねることであり,現実世界では重ねられたものには厚みが生じ,厚みをもつことは重さという重力の支配下に入ることを意味すると考えるからである.
「投影」すれば「平面」にイメージが「重なる」.「重なり」が生じた「平面」は立体なのではないか.「重なり」は厚みを生み出す.厚みとは重さのことであり,「平面」の「重なり」で生じた立体は,私たちと同じように「重力」の影響を受けるのか.モノにイメージを直接「投影」する.モノとイメージとが重なりひとつの「平面」となる.モノとイメージとの「重なり」に「重力」は影響するのか.重力/投影/重なりの3つのキーワードを中心にして,藤幡作品にとっての「平面」が持つ意味を考えていく.
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現実世界には重力があり,モノには厚みがある.そこには《Beyond Pages》では生じなかった世界が,テーブルの上に置かれたモノとそこに投影された映像の重ね合わせから生まれている.藤幡は実物と映像のトランプとの重なりだけで,平面でありながらも空間でもある不思議な世界を「薄いテーブルの上に」成立させているのだ.
《未成熟なシンボル》で使われている机の天板は薄くない.けれど.藤幡は「薄いテーブルの上に」と書く.薄くないのに薄い.しかし,テーブルの上には確かに「薄い」世界が広がっている.実物のトランプが示す薄さの中で,映像と実物のトランプとのインタラクションが起こる.手で触れることができる「薄さ」を持つ平面は,手に触れられた瞬間に立体となる. このリアルな薄さは《Beyond Pages》にはなかったものだ.《Beyond Pages》はリアルな薄さを排除して,手で触れることができない「薄さ」を机の上に投影して世界を構築する.《禁断の果実》は平面の重なりが確認できないほどひとつひとつの平面は薄い.しかし,その「薄い」平面の重なりによって,立体を作り上げている.藤幡の「平面」とは,これら様々な奇妙な「薄さ」のことなのだ.藤幡は平面に「薄さ」を与えて,「薄さ」を組み立てるのだ.
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「薄さ」の中で,平面と立体とが同一化する.それは今まで,コンピュータでのみ実現されてきた「薄さ」であった.いや,それはいつでも想像されてきた平面であった.だから,コンピュータがその存在の可能性が開かれた平面といった方がよいであろう.
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これは冒頭に引用した「四次元からの投影物」の最後の部分である.コンピュータを用いる中で,イメージと立体が区別されない領域を見つけたことは藤幡の作品における「平面」を考える際に最も重要だと,私は考えている.なぜなら,藤幡はここから平面の探求をスタートして,再びここに戻ってくるからである.藤幡はコンピュータを,平面と立体が別々の形態としてあるのではなく同一のものとして扱える場所として考えている.現実世界では平面と立体とのあいだに超えられない境界があるが,コンピュータにはその境界が存在しない.だから藤幡は,現実の中で平面と立体との境界線を曖昧にする作品《禁断の果実》を制作したのだ.
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《Beyond Pages》で「本」を受け入れる瞬間に起こっていることは, モノとイメージとのあいだに存在する薄い平面を受け入れることなのだ.
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藤幡はインタラクティブな作品をつくるメディアアートの作家というカテゴリーで扱われてきた.しかし,本稿が示してきたように藤幡の関心のひとつは「平面」なのである.
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I would like to call Fujihata an architect of the plane. Of course, Fujihata is an artist but I dare to say he is the architect in the superflat age. Fujihata anticipates the architects in the superflat movement. The superflat is the idea of Takashi Murakami in order to export the Japanese art into the world wide art market. Although the superflat comes from the Japanese subculture, this idea is also related with the computer’s flat world like GUI. We start to refer to computer engineers as IT architects, therefore I call Masaki Fujihata who knows the essence of the computer as the architect of the plane.
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Jyunya Ishigami makes a big thin table. This table’s thinness is very strange which is very similar with Unformed Symbols. These works do not use the computer. However, more complex interaction happens in two works because of their own thin plane. The plane is not only the plane, but also the solid. We already meet this situation on the computer, but Fujihata’s Unformed Symbols and Ishigami’s Table make no gravity field in the real gravitational world. In this thin world, there is no difference between the plane and the solid.
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コンピュータに存在する「四次元感覚」を現実に作り出すこと.それが藤幡が作品で試みてきたことなのだ.

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